きよかぜ便り

60の手習いで覚えたパソコンとカメラで楽しんでいます

2013年11月

平林寺の紅葉 ①
 
2013年11月27(水)・埼玉県新座市野火止にある古刹、平林寺の紅葉狩りに友人たちと訪れました。折よく紅葉の真っ盛りでした。
 
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開門は午前9時、ほんの数分後に総門を入ると境内は紅葉狩りの人でいっぱいでした
 
 
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総門を入った左手は、空が紅葉に隠れて紅く染まっていました
 
 
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平林寺山門
平林寺の山号は金鳳山、臨済宗妙心寺派の寺院で、修行道場として僧堂が設置されている禅の寺です。1375年、現在のさいたま市岩槻区に創建された寺院で、当初は臨済宗建長寺派でしたが、大徳寺派を経て妙心寺派の寺院となりました。その後、大河内松平家の霊廟となり、幕府の老中で 川越藩主となった松平信綱の遺言により、子の輝綱によって寛文3年(1663)岩槻から野火止の地に伽藍が移築されました。
 
 
 
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山門内から総門方向
山門は、茅葺きの重層入母屋造りで丈山筆の扁額「凌霄閣」を掲げています。楼上桟戸の両側には花頭窓が施しであり、内部には松平信綱によって寄進された釈迦・文殊・普賢の三尊仏と十六羅漢像が安置されています。この山門は、寛文3年に岩槻平林寺の山門を解体し、野火止に移築後補修したもので、350年以上の風雨に耐えている建造物であり、県の文化財にも指定されています。
 
 
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平林寺仏殿
山門と同じく岩槻から移築された仏殿は、禅宋様式をよく伝える唐様の建物で、茅葺きの単層入母屋造りです。
 
 
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仏殿内部
本尊は釈迦如来坐像で、阿難尊者と迦葉尊者が両脇侍として安置されています。この本尊は、天正18年(1590)に岩槻城が炎上した際に持ち出され、消失を免れたという謂われのある仏像です。
 
 
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高野槇
山門をくぐると右側に樹齢約600年を数える高野槇があります。寺の口伝によるとこの槙も岩槻から運び込んだと言われています。
 
 
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本堂前・庭園の紅葉
 
 
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鐘楼
 
 
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片割れ地蔵
 
 
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放生池
 
 
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半僧坊裏の紅葉
 
 
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長い歴史を刻む平林寺伽藍の建物の「わび・さび」と豪華絢爛な紅葉との共演が素晴らしく、まるで夢の中、極楽境地をさまよう雰囲気でした。放生池脇の上の写真のあたりから時計回りに、境内林を散策しました。境内林は、武蔵野の面影を残す雑木林として、1968年(昭和43年)に国の天然記念物に指定されています。
 
 
 
 
 

皇居東御苑の紅葉
 
2013年11月19日(火)・新駐米大使の信任状捧呈式を見る前に、東御苑に立ち寄りました。
 
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東御苑・旧江戸城本丸跡の大欅
この二本の大欅のあるあたりに、江戸城本丸の玄関があったとされます。
 
 
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東御苑・本丸大芝生
大芝生の左寄りにある細長い石碑には「午砲台跡」とあります。明治4年、皇居内の旧本丸跡のここで、正午を知らせる大砲が打たれたそうです。大砲の「ドン」という音の響きから、俗にドンと呼ばれました。この音は当時の東京市の隅々まで届いたそうです。
 
 
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旧江戸城天守台
明暦の大火(1657年1月の振袖火事)で焼け落ちた天守閣は、その後再建されることはありませんでした。現在残る天守台は、明暦の大火の翌年に加賀前田藩により築かれたものです。
 
 
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明暦の大火で焼け落ちた寛永の天守閣の復元図(ネットより)
寛永の天守閣は、三代将軍徳川家光の時に建立された、高さ51mの五層の天守閣だったそうです。現在でもこの天守台に、天守閣を再建しようという運動のあることを知りました。
 
 
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二の丸庭園・諏訪の茶屋
諏訪の茶屋前には立派な菊が展示されていました。奥のは「大菊三本仕立て」、手前のは「懸崖菊・けんがいぎく」で、断崖の岩間から松の老木が自然に垂れ下がっている様子を小菊で表現しています…との案内板がありました。
 
 
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二の丸庭園・菖蒲田から滝方面
 
 
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回遊式の二の丸庭園は小堀遠州作庭と言われています
 
 
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池に藻が浮いていて「ヒレナガニシキゴイ」は、よく見えませんでした
 
 
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二の丸雑木林の黄葉
 
 
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オトコヨウゾメの実
オトコヨウゾメは私の気に入りの木で、この花や実を見るために何度も来ます。小鳥に啄まれたらしく、赤い実は少ししかありませんでしたが、紅葉した葉との″共演″も美しかったです。
 
 
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オトコヨウゾメの花(2013.4.19.撮影)
可愛い花でしょう…来年も花時を逃さずにと思っています
 
 
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カモメギク(鴎菊)
カモメギクは、日本ではここ東御苑にしか植栽されていない菊だと、ネットに書いてあります。花はアワコガネギク(泡黄金菊)に似ていますが、よく見ると花弁が細く、又葉も違います。柔らかい何とも言えない風雅な香がして、虫も沢山寄ってきています。
 
 
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カモメギク(鴎菊)
二週間ほど前にも、カモメギクとオトコヨウゾメの実を見に東御苑に来ました。
 
 
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キチジョウソウ(吉祥草)
「この花が咲くと吉事がある」といった言い伝えや、あるいは逆に「その家に吉事があるとこの花が咲く」といった言い伝えから「吉祥草」と名付けられたようです。 最近は、彼方此方で見かけるようになりましたが、数年前に知ったばかりの花です。蕊の先の花粉が綺麗でした。
 
東御苑を後に、内堀通りを歩き二重橋や皇居外苑の楠木正成像を見に行きました。
 
 
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楠木正成像
 
楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。楠公の銅像の作者は高村光雲、馬は後藤貞行作。上野の西郷像も西郷は高村、犬は後藤の作です。この銅像は上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び「東京の三大銅像」と呼ばれています。
 
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この像は住友財閥が、別子銅山開坑200年記念に献納したものです。隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が島を脱出し、還幸途次の兵庫の道筋でお迎えした折の楠木正成の勇姿を象ったものだそうです。でも、今の天皇家は北朝と聞いていますがなぜ、南朝方の楠公の銅像が皇居外苑にあるのかはわかりません。

キャロライン・ケネディ駐米大使 信任状捧呈式
 
2013年11月19日(火)・アメリカの新しい駐日大使・キャロライン・ケネディ氏が、オバマ大統領からの信任状を天皇陛下に手渡す儀式が執り行われました。宮内庁のホームページで確認し出掛ける予定でいた夫が、急な用事でいかれなくなり、急遽私が代わりに出かけることになりました。信任状捧呈式の馬車行列の出発はPM3時05分です、早めに出かけて東御苑や皇居外苑などを見物、1時間前には馬場先門近くの最前列に並んで、その時を待ちました。
 
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明治生命館
 
明治生命館は太平洋戦争後GHQに接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用されましたが、1956年にアメリカ軍から返還されています。 信任状捧呈式の際、東京駅から馬車か車で皇居宮殿までの移動でしたが、東京駅復原工事中の際は、この明治生命館からの出発となっています。2時間ほど前にここを通りましたが、沿道にはもう並んでいる人が多くいました。
 
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1時間前から並んで、運よく馬場先門近くの最前列に陣取ることが出来ました。似た年齢のかしましいおばさんたちとお喋りしていたら、1時間はあっという間に過ぎました。かつて、衛星放送で最初に映し出された故ケネディ大統領暗殺の映像を見た年代が多く、皆″キャロラインちゃん″と呼ぶんですよ…。時間通り、PM3時05分に馬車行列が出発しました。
 
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アメリカの新駐日大使・キャロライン・ケネディ氏
 
夢中で望遠レンズの連続シャッターで撮り、唯一写っていた貴重な写真です
 
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あっという間に遠ざかりました…お顔は見ましたか?…レンズの中で見たような
 
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二台目の馬車
 
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三台目の馬車
 
ケネディ大使は、チャコールグレーのタイトなワンピースに、黒いパンプスと黒いハンドバッグ、
胸には2連の真珠のネックレスとペンダントをつけていた…とテレビで言っていました。
ケネディ大使を乗せたのは、大正2年(1913年)に製造された「儀装4号」という馬車、車体や車軸には、菊の御紋章が入り、手綱を持った御者が、体重800kg前後の馬2頭をさばくそうです。また、馬車の後方には、タイヤを止めるためのブレーキを踏む、「車従」が立ちます…ネット検索です。
 
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行幸通りの銀杏並木の黄葉
 
物足りない気持ちのまま、帰ろうとして歩いていたら、行幸通りに人が多くならんでいます。近くの人に尋ねたら″あと15分位でお帰りの馬車が通りますよ~″とのこと、そのまま私も並びました。銀杏並木が綺麗で、沈みかけた夕日に輝いています。お巡りさんが、PM3時51分には皇居を出ますとの情報を、教えてくれました。
 
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帰路は和田倉門から行幸通りの真ん中の道を通って、明治生命館にかえります。夕陽に輝く黄葉の中を通る馬車は美しく、映画の中のワンシーンのようでした。シャッターを押しながら、綺麗に撮れますようにと念じましたが、目に焼き付いた光景を写し取るのは難しかったです。
 
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キャロライン・ケネディ大使の馬車
 
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二台目の馬車
 
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三台目の馬車
 
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行幸通りを右折して明治生命館に向かいます…
 
この季節4時を過ぎると薄暗くなります、急いで丸ノ内線に乗り帰路につきました。
 
沿道に並ぶ前に写した数枚の写真です。
 
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皇居正門石橋…馬車はここを渡り左側の正門から入ります
 
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行幸通り…正面は新装なった東京駅です…普段は真ん中の道を車は通りません
 
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並んだユリカモメ…ケネディ大使を歓迎しているのでしょうか
 
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「リーフデ号」の碑
 
この碑は丸ビル横にあります。1598年にオランダ船リーフデ号は豊後国に漂着しました。乗っていたのは「ウイリアム・アダムス…三浦按針」と「ヤン・ヨーステン」等です。
ここ八重洲も″ヤン・ヨーステン″が訛って付いた名と言われていますし、屋敷跡は和田倉門近くと言われています。徳川家康に重用され青い目の侍となった二人…駐日大使の馬車行列をみる前に、この碑を是非もう一度見てみたいと思いました。ちなみにリーフデとは「博愛・慈愛」のことだそうです。

日立中央研究所庭園とその周辺
 
 2013年11月17日(日)日立中央研究所庭園の秋の開放日がありました。
日立中央研究所の創設は昭和17年、当時の地名は東京府北多摩郡国分寺村大字恋ヶ窪。ここは奈良時代に聖武天皇が全国に建立した国分寺の一つ、武蔵国分寺の旧地にあり研究所構内からも往時の住居跡、さらには先土器、縄文、弥生時代の遺跡が発掘されています。この由緒ある地に研究所を創設するに際して、小平浪平創業社長の「よい立ち木は切らずによけて建てよ」という意思を受けて建立されました。敷地は2万7千㎡、構内には約200種、2万7千本の樹木が茂っています。南側の大池は昭和33年に完成しました。この池は国分寺崖線(通称ハケ)と呼ばれる湧水を集めて流れる野川の源流の一つに当たり、大池も構内数か所の湧水を利用して湿地に造られました。
 
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日立中央研究所正門前
 
国分寺市恋ヶ窪にある「日立中央研究所庭園」は年二回、桜の季節と紅葉の季節に公開開放されています(AM10時からPM3時まで)。今年の春の公開は雨天のため直前に中止されました。昼頃自転車で到着したら、正門前は人でいっぱいでした。
 
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日立中央研究所構内・返仁橋(へんじんばし)
 
返仁橋の下は、足もすくむほどの深い渓谷で、木々の合間からはけで湧いた清水の流れる音がします。梢では小鳥の鳴き声がかしましく聞こえます。
 
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日立中央研究所本館
 
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芝生広場はお弁当を広げる人でいっぱいでした
 
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日立中央研究所庭園・大池
 
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今回で5回目の日立庭園ですが、去年も今年も紅葉の盛りには1週間ほど早かったように思います。それでもここからの景色は抜群で、一番のビューポイントと思いました。手前の大池と、右端の水路で繋がった奥にも池があります。写真では見づらいですが、ヒマラヤスギの下あたりに二羽の白鳥がいました。
 
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大池の白鳥
 
一昨年までいた白鳥は死んだらしく、去年は白鳥がいませんでした。今年の白鳥は人馴れがしていて、人を怖がらず餌をねだっているように見えました。後で係りの人に聞きましたら、″そうなんですよ、人に飼われていた白鳥なんですよ″と…。
 
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奥の池
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奥の池と1羽の白鳥
 
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見上げると深山幽谷の感がします
 
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国分寺崖線(通称ハケ)からの湧水
 
国分寺崖線は立川から世田谷の等々力渓谷まで続く約25キロの河岸段丘で、古代多摩川が削った跡と言われています。野川はこの日立庭園のはけの水を最上流端とし、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流します。
 
日立中央研究所を後に、その西側にある古刹の熊野神社と東福寺を訪ねました。
 
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国分寺市・熊野神社
 
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国分寺市・熊野神社境内「聖護院門跡道與准后歌碑」
 
朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪今はた訪うも知記りならずや」道與准后(どうこうじゅごう)の歌です。歌碑は有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)筆です。この歌は1486年の「廻国雑」、東国遊覧した時の雑記に記されています。道與准后は諸国巡歴をした門跡高僧で、記録の少なかった当時の武蔵国の貴重な資料となっています。
 
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国分寺市・東福寺
 
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東福寺境内の傾城の墓
 
伝説の恋物語…源平の争乱期、打倒平氏の旗のもとに集まった東国の武士たちの中に「坂東武士の鑑」と賞された武将・畠山重忠がいました。頼朝上洛の際は先陣を務め、ひよどり越え(1184年一の谷の戦い)の難所では愛馬を背負って越えたという逸話を残す猛将です。その重忠の心をとらえた美しい女性、夙妻(あさづま)太夫はここ恋ヶ窪宿場の遊女でした太夫は、平家追討のため西国へ向かう重忠に「ついて行きたい」と懇願したものの果たせず泣く泣く帰りを待つ身に。そこへ常日頃から太夫を横恋慕していた男が「重忠は西国の戦さで討ち死にした」と空事をささやいたのです。重忠の帰りをひたすら祈る日々だった太夫は、男の言葉に全てを打ち砕かれ、悲嘆に暮れてついに「姿見の池」に身を投げてしまいました。
 
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一葉の松…(私には二葉の松葉しか見えませんでした)
 
里の人たちは太夫の死を哀れみ、一本の松を植えて墓標としたと言います。松は重忠を思ってか西へ西へと傾き伸びていき、葉が一葉しかなかったので「一葉の松」と呼ばれました。その松の枝を接いで、現在三代目の東福寺の境内に立っています。その横に「傾城墓」と刻んだ小さな石塔が一基あります。「恋ヶ窪」の名はそんな荒武者と遊女のロマンスから名づけられたものだとも言われています。
 
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姿見の池
 
この池は鎌倉時代に鎌倉街道の宿場町として栄えていた恋ヶ窪の遊女たちが、朝な夕なに自分の姿を池に映していたことが名前の由来と言われます。大岡正平の「武蔵野夫人」にも登場する池ですが、昭和に入り一度埋め立ててしまったものの、近年再び整備されかつての姿を偲ぶことが出来ます。
 
 

大江戸散歩・両国~亀戸天神~吾嬬神社
 
2013年11月9日(土)・都営大江戸線の秋のワンデーパス「500円」を利用して、両国~亀戸~立花周辺を歩いてきました。このルートは2009年にも一度歩いたことがあります。墨田区立花にある弟橘媛命を祀った「吾嬬神社」にお参りするのが主な目的ですが、スカイツリーを眺めるのも楽しみでした。大江戸線の両国駅で降り清澄通りを歩き始めると、東京都慰霊堂がありました。
 
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東京都慰霊堂
 
東京都慰霊堂横綱公園内にある慰霊施設で、1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明者の遺骨を納め霊を祀る震災記念堂として創建されました。又1948年(昭和23年)の東京大空襲の身元不明者の遺骨をもおさめ、霊を合祀して、1951年に現在の姿になりました。
この横網町公園は元陸軍被服廠のあった処で、当時は公園予定地として更地になっていたそうです。関東大震災の時にこの場所に逃げ込んで亡くなった人は推定38,000人、又、第二次世界大戦による一連の空襲により亡くなった人は78,000人余りと言われています。
本堂の設計は伊東忠太氏です。
 
 
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東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 
斜面を覆う花は生命を象徴していて、碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々の名を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められているそうです。丁度空には飛行船が飛んでいました。
 
慰霊堂を後に、本所にある勝海舟所縁の妙見山別院に立ち寄りました。
 
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能勢妙見山別院
 
能勢妙見山の東京別院で、親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名です。幼い頃、勝麟太郎は路上で犬に急所を咬まれ重傷を負って生死の境をさ迷いましたがその時、父小吉は日頃信心しているこの寺で何日も水垢離をしたと伝えられています。その甲斐あって麟太郎は奇跡的な回復力をみせたと言います。又、小吉は海舟の海運勝利をも水垢離をとって祈願したことは 作家、子母沢寛氏の「父子鷹」に詳しく記されています。
 
 
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妙見山別院境内の勝海舟像
 
勝海舟翁を偲んで地元有志の建てた胸像が境内にあります 。広くはない境内ですが
お堂が多くあり、綺麗に掃き清められて秋草が風に揺れていました。
 
妙見堂前の道を東に歩き進むと横十間川につきあたり、右手に天神橋があります。
 
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元祖くず餅・船橋屋
 
文化2年(西暦1805年)に開店した亀戸天神本店は創業から二百年余りの歴史があります関東のくず餅は「久寿餅」で原料は小麦粉の発酵食品ですが、関西の「葛餅」は葛粉で作る葛餅…両者は、元々全く違う食べ物です。
 
 
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亀戸天満宮
 
亀戸天満宮は17世紀の中頃、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡りました。そして1661年に江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされます。
社前は七五三詣りの人が多く、菊まつりも開かれていて賑やかでした。
 
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亀戸天満宮太鼓橋(女橋)とスカイツリー
 
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亀戸天満宮・菊まつり・「菊千輪咲き」
 
亀戸天神通りをしばらく歩くと、左手に香取神社表参道があります。
 
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香取神社鳥居とスカイツリー
 
香取神社・平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷はこの香取神社に参拝し戦勝を祈願し乱を平定することができました。神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納、勝矢と命名されたこの古事により、1000年の時を経て今も「勝矢祭」が守り伝えられています。歴代の天皇をはじめ源頼朝、徳川家康などの武将達、また剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受けています。今、香取神社は「スポーツ振興の神」として、勝利を願う多くの人が訪れているそうです。
 
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亀戸・香取神宮本殿
 
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亀戸香取神社境内・「亀戸大根の碑」
 
香取神社脇の春日通りを北へ進み、北十間川に架かる福神橋を渡り右へ少し歩くと、吾嬬神社の狭い参道が見えます。
 
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吾嬬(あづま)神社
 
吾嬬神社・日本武尊が東征のため相模から上総へ渡ろうとした際、暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めました。日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりと言われています。地名の立花は、この弟橘(立花)媛の言い伝えにより命名されました。
 
現在の東京湾沿岸には、袖ヶ浦、袖ヶ浜、梅沢、などという地名が多くありますが、これは弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説に基づいて名付けられた地名です。沿岸には弟橘媛所縁の神社が多くあり、この神社訪ね歩くのも、私の楽しみになっています。因みに、古事記と日本書紀では物語の記述が異なります。
 
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吾嬬神社境内・神樟「連理の樟」
 
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。境内には「吾嬬神社の連理の楠」と呼ばれる神木が、昭和38年に建てられた神樟の碑とともに保存されています。 流れ着いた遺品のうち、箸をさしたものが根づいて、その根から二つの幹が出たので「連理の樟」と言います。江戸時代には周囲4、5mもあったそうですが、大正時代には枯れて、今は根だけが残っています。
 
吾嬬神社の鳥居前は北十間川が流れています。帰りはこの川に沿って歩きました。
 
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北十間川に映るスカイツリー
 
北十間川は総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり江戸時代初期に開削された運河です。西に隅田川、東に旧中川と接続します。
 
 
 
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静かな北十間川の水面に映るスカイツリー
 
 
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隅田川の吾妻橋東詰めにある「あづま地蔵尊」
 
関東大震災の時にはこの橋が焼け落ち、隅田川の右岸と左岸は生死を隔てる橋となり、向島から浅草へ逃げようとした多くの人がこの辺りで亡くなったそうです。又東京大空襲で亡くなった多くの人々をも、ご供養するお地蔵様です。
 
 
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スカイツリーとアサヒビールビル…吾妻橋から撮影
 
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駒形堂
 
駒形堂628年、隅田川でで漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像があり、これが浅草寺本尊の聖観音像です。観音像は高さ1寸8分(約5.5㎝)の金色の像であると言われていますが、公開されることのない絶対秘仏のため、その実体は不明です。 駒形堂は、観音様が上陸された浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、お堂裏手の隅田川に架かる橋は駒形橋です。
 
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吾妻橋とスカイツリー…駒形橋から撮影
 
スカイツリーは吾妻橋から眺めるのもいいですが、人の少ない駒形橋からの眺めの方が好きです。駒形橋から蔵前駅まで歩いて大江戸線で帰宅しました。
 

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