きよかぜ便り

60の手習いで覚えたパソコンとカメラで楽しんでいます

2013年12月

 
滄浪泉園から野川公園へ
 
2013年12月15日(日)・今年最後の紅葉狩りに出かけることにしました。 私の住む街から新小金井街道を南下すると、国分寺崖線の急坂で有名な小金井市の貫井トンネルがあります。そのトンネルの東側に滄浪泉園があります。自転車で約1時間の距離です。
 
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滄浪泉園・長屋門
 
滄浪泉園は、 明治 ・大正期に三井銀行等の役員、 外交官、衆議院議員など歴任した波多野承五郎氏(雅号・古渓)の別荘のあった処で、 武蔵野の特徴的な地形である「ハケ」とその湧水を取り入れた庭園です。 名の由来は、 この庭園を訪れた犬養毅(雅号 ・木堂)元首相によって名付けられました。 「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」との意味だそうです。 入口前にある石の門標の文字は、 木堂翁自らの筆によるものです。
 
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門を入り、落ち葉の散る石畳の道をゆくと休憩所や水琴窟があります。快晴の午後、この時間の園内には誰もいませんでした。
 
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園内のモミジの紅葉は盛りでした
 
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空を見上げると、色とりどりの極彩色の紅葉です
 
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滄浪泉園は擂鉢状になっており、底には湧水の溜った池があります。池へと降りる石段の途中の、木の間から見る池と紅葉の風情が、一番好きです。
 
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池に映る木々は神秘的です
 
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写真には写し取れない、池に映える紅葉です。
 
この泉の紅葉は遅く、12月半ばをすぎないと色付きません…池の水は野川に流れ込みます
 
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国分寺崖線からの「ハケ」の湧水です
 
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おだんご地蔵…園内にはお地蔵様が数体あります
 
 
滄浪泉園の池の水は、近くを流れる野川に注いでいます。滄浪泉園を後にして、国分寺崖線の坂を下り野川に沿って走り、野川公園自然観察園に向かいました。
 
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野川公園自然観察園内の紅葉
 
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オオモミジが空を赤く染めています
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自然観察園内の「鏡池」に映り込む紅葉…ここのモミジの盛りは過ぎていました
 
 
野川公園からの帰り道のコースは幾通りもありますが、この日は浴恩館公園に立ち寄りました
 
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浴恩館公園・仙川に架かる「次郎橋」 
 
昭和3年の御大典の際、京都で使用された建物を青年修養道場として下賜されたものを移築、皇室の「御恩に浴する」との意味で、「浴恩館」と名付けられました。
下村湖人は昭和8年から12年まで、この場所にあった青年団講習所の所長を務め、そのころ「次郎物語」の執筆を始めた湖人はこの地をモデルに構想を練り次郎の少年時代を記述したと言います。
 
 

 
神田川の源を訪ねて・妙正寺池と妙正寺
 
井の頭池も善福寺池も大きな湧水の池ですが、妙正寺池は小さな池です。こんな小さな池の水源をも必要としていた、当時の江戸の水事情が思いやられます。妙正寺池へは、井草八幡前から始まる″早稲田通り″を通り、″環八の井荻トンネル″を超えると直ぐ近くにあります。
 
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妙正寺池は、古来より武蔵野台地の湧水池のひとつであり、1352年に池のほとりに日蓮宗の寺院である妙正寺が建てられました。池の名前はそれに因んでいます。
 
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小さな池ですが水鳥の数が多く、区民の憩いの場となっています
 
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この池も現在では湧水量が減り、池の水は地下水を汲み上げています。
 
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妙正寺池は東京都杉並区清水にあり、妙正寺川の水源となっています
 
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流れ出る妙正寺川
 
妙正寺川は途中、中野区松が丘二丁目で江古田川を、新宿区の西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通りの下を流れ、新宿区の高田橋付近で神田川に合流しています。又この周辺の地名である「落合」とは、神田川と妙正寺川の二つが合流していたことからその名が付きました。
 
池の南側には、妙正寺池の名の由来となった妙正寺が建立しています。
 
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妙正寺山門
 
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妙正寺本堂
 
山号は法光山、日蓮宗の寺院で、(1352)に下総国の中山法華経寺第3世・日祐上人が妙正寺池のほとりに堂を創建しました。1646年に社殿を再建し、その三年後の1649年に徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄ったのをきっかけに葵の紋幕と朱印地・五石を賜り御朱印寺となります。杉並区内でも由緒ある寺として知られています。
 
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神田川の源を訪ねて・善福寺川とその周辺
 
善福寺池の下の池から流れ出て、善福寺川となります。
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流れ出た善福寺川は11.3k流れた杉並区と中野区の区境付近の、中野区弥生町で神田川と合流します。川は神田川となるため、善福寺川の名は消えてしまいます。
 
 
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「トラディスカンティア・フルミネンシス」…流通名は″胡蝶の夢″
 
下の池の木下に、この花?葉?がたくさん生えていました。何時だったか「youkoのブログ」で拝見したことがありますが、野生化しているのを見たのは初めてでした。
 
 
善福寺公園の近くには井草八幡宮があります。神田川とは関わりはがないのですが、善福寺池に行ったときには必ず立ち寄ります。車の運転をなさる方は、青梅街道沿いの朱色の大鳥居を記憶していると思います。また、早稲田通りはこの大鳥居前地点から九段の田安門までの道です。
 
 
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井草八幡宮・大鳥居
 
 
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井草八幡宮・楼門
 
 
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井草八幡宮・回廊
 
 
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井草八幡宮・本殿
 
縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれています。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになりました。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられています。江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進しており、以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進がありました。
 
 
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源頼朝公お手植えの松…「二代目」
 
奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が社殿前に雌雄二本植えられていましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(日本一と言われる黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には枯れてしまいました。現在は、二代目の松が植えられています。
 
 
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「衝立」として保存されている頼朝公お手植えの松
 
井草八幡宮の鎮守の森は奥深く静かで、厳かです。本殿の前に回廊のある神社は珍しいです。
 
井草八幡宮前から青梅街道を北へ少し行った「関口1」の信号は千川通りの終点です。その西側には千川上水が流れます。バス停などは「水道端」の名になっています(青梅街道の西側)
 
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千川上水
 
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千川上水は玉川上水を水源とし、玉川上水の境橋(堺浄水場近く)から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの上水であり、江戸の六上水のひとつでした。大部分が暗渠化されているますが、東京都の清流復活事業により一部区間には高度処理下水を流し、水辺が復活しています。
 
 
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 青梅街道と千川通りの合流点(水道端)…右端の緑地が千川上水緑道です。
 
 
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最近整備された青梅街道の東側の千川上水緑道で、千川通りに沿っています。今、水路はないですが、きっとじきに千川上水の流れも復活すると思います。
 
 

神田川の源を訪ねて・善福寺池
 
2013年12月11日(水)・自宅から田無市へ出て、青梅街道を自転車で走りました。
 
 善福寺池は井の頭池や三宝字池と共に武蔵野三大湧水池のひとつにも数えられ、妙正寺池とともに武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺からの湧水によってできた池です。善福寺池の名は昔、丘の西側に善福寺、万福寺のふたつのお寺があって、そのひとつが池の名として残ったと云われています。 關東ローム層からの湧水の多い標高50mの地で、昔は水量が豊富で江戸時代の水道 ・神田上水の水源として利用されました。現在は善福寺池を中心に遊歩道が整備され、憩いの場となっています。池は道を挟んで上の池と下の池に別れています。まずは″上の池″を時計回りにまわりました。
 
善福寺池・上の池
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遅の井(おそのい)
 
善福寺池の湧水のひとつです。その起源は古く、言い伝えによると約800年前の1189年、源頼朝が奥州征伐に向かう途中、この地で飲料水を求めるために土を掘りましたが、折からの干ばつでなかなか水が出ず、自ら弓の「はず」で土を7箇所掘ると、しばらくしてその7箇所に水が湧き出たと言われています。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅の井」と命名されました。現在は、泉が凅れてしまったので、新たに井戸を掘りポンプで汲みあげ、遅の井の滝として復元しています。
 
 
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善福寺池は善福寺川の水源にもなっている他、東京都水道局杉並浄水所の水源になっています(23区内で、井戸が水道の元になっているのはここだけとのことです。北と南に2つの池があり、公園としては1961616日に開園しました。近辺には武蔵野の雑木林を思わせる木々も多く野鳥や水鳥、草花も豊富で、交通の便に恵まれなかったことも幸いして、都内でも数少ない自然豊かな公園です。面積は78.622㎡で、 中心となる池が上の池 ・下の池合わせて37.000㎡あります。  
 
 
善福寺池・下の池
 
南側にある下の池は、池の中に葦が多く植生しており、野鳥が多く棲む野趣に富んだ池です。
 
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善福寺池には練馬区に住んでいるときにも二度ほど、千川通りを通って自転車で来たことがあります。今の住まいからの距離と同じくらいで、要する時間は1時間ほどでした。紅葉時に来たのは初めてでしたが、下の池の落羽松(ラクウショウ)や銀杏、葦の小島の染まり具合が見事で、息をのむような美しい景色でした。絵を描いている人も何人かいて、その絵心を羨ましいと思いました。…続きます…。
 
 

神田川の源を訪ねて・井の頭池とその周辺
 
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神田川の碑…神田川の傍らにあります
 
 
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水門橋と神田川の流れ
 
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流れ下る神田川(旧神田上水)
 
かつての神田上水は、井之頭池から関口大洗堰までは野方堀と呼ばれた開渠の堀で水を運び、関口から水戸屋敷(小石川後楽園)までも開渠の堀で、水戸屋敷を出て御茶ノ水懸樋(水道橋)で神田川を渡り、武家地や町人地を給水していました。
 
現代の神田川は、井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する流路延長24.6km流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠です。高度経済成長期には水質が悪化し「死の川」と呼ばれていましたが、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになりました。
 
井の頭池の御殿山周辺は、井の頭恩賜公園の中でもより豊かな自然を感じることが出来ます。
 
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御殿山の紅葉
 
御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来すします。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場でした。江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもありました。この地は幕府御用林でしたが、明治維新後は東京府が買収しました。
 
 
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安藤広重の名所江戸百景「井の頭の池弁天の社雪の景」
 
井の頭公園の脇を玉川上水が流れ、ここに架かる万助橋には謂れがあります。
 
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松本訓導受難の碑(2011年8月撮影)
 
大正8年(1919)秋の遠足に来た東京麹町永田小学校の児童が足を滑らせて玉川上水の万助橋あたりに転落、学童は、草に掴り助かりましたが、学童を救おうとした松本訓導は、「人食い川」の異名のある急流に呑まれて帰らぬ人となりました。時に33歳だったといいます。近くには松本虎雄訓導受難碑が建っています。明治生まれの義母は、修身の時間にこの事件を詳しく教わったといいます。
     
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万助橋下の玉川上水の流れ
 
帰路は万助橋を渡り三鷹駅まで、風の散歩道と名付けられた緑道を通ります。
 
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山本有三記念館と門前の″路傍の石"
 
1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで住んだ家で、有三はここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しました。名作を記念する″路傍の石″が門前にあります。小説『路傍の石』執筆当時の昭和12年、有三は、中野の旧陸軍電信隊付近の道端でこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運びこんだと伝えられます。この石は作品の名に因み、いつしか″路傍の石″と呼ばれるようになりました。
 
 
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″風の散歩道″の傍らの「玉鹿石」…(写真中央下)
 
この辺りの玉川上水で入水した太宰治を偲んで、故郷の青森県五所川原市金木町産の玉鹿石を置いてあります。太宰が好んで散歩したというこの道は、風の散歩道として整備され、近くには太宰の文学碑と玉川上水で撮られた写真も展示してあります。
 
 

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