きよかぜ便り

60の手習いで覚えたパソコンとカメラで楽しんでいます

2014年11月

 
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2014年11月27日(木)・天気予報を心配しつつ楽しみにしていた、友人達との皇居東御苑散策に出かけました。池袋駅でAM8時の待ち合わせに15分以上も前に皆集合…丸の内線に乗り大手町駅で降りました。東御苑の開苑はAM9時ですが、30分以上前に大手門前到着、予定を変更して北桔橋門から入ることにしました。
 
 
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皇居大手門…江戸城の正門です
 
二日続きの雨も上がり日も射していますが、大手町の高層ビル群に遮られて日射しは皇居に届きません。まるで夜明け前の様な景色、大手門も開いていません。
 
 
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大手門から時計反対周りに北桔橋門へと歩きました…濠へビル群が映り込みます
 
 
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正面の銀杏は「震災銀杏」…その右側に「和気清麻呂像」が見えます
 
 
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「震災イチョウ」は関東大震災による火災から焼失を免れたことが名の由来です。後日伐採の対象になりましたが、当時の中央気象台長の努力で保存され、気象庁に近い現在地に移植されました。気象庁は現在、この「震災イチョウ」を東京におけるイチョウの標準木として観測の対象としています。
 
 
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毎日新聞社ビルが大手濠に映り込みます
 
 
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平川橋と平川門
 
 
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竹橋からの眺め…奥に平川橋と気象庁舎が見えます
 
 
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北桔橋門に連なる築地塀…白い築地塀は江戸時代の遺物だそうです
 
 
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北桔橋から眺めた平川濠…18.5mもあると言う堅牢な石垣の反りが美しいです
 
 
 
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ヤドリギ(宿り木)…北桔橋門の前にあり、エノキ(榎)に着生しています
 
 
北桔橋門をAM9時ちょうどに入苑しました。北桔橋は名の通り″跳ね橋″です、嘗ては有事の際には橋をはねあげて交通を遮断できる仕掛がありました。
 
 
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門の柱には橋を跳ね上げるために滑車をつるしたと思われる金具が残っています
 
 
北桔橋門を入るとすぐ目の前が天守台です…背後の守りが堅いわけです
 
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天守台の「金明水」井戸…今でも水が湛えられているそうです
 
 
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天守台のオオシマザクラ(大島桜)…花も美しいですが紅葉も見事です
 
 
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「午砲台跡」…本丸芝生広場の中央にあります
 
明治4年、皇居内旧本丸跡地で兵部省(陸軍省の前身)が正午を知らせる大砲を討つこととし、天文台からの電信の合図で発砲したといいます。大砲のひびきから俗に「ドン」という言葉で呼ばれるようになり、当時は東京市の隅々まで音が届きました。半日で終わることを「半ドン」といい、その語源になったという説もあります。
 
 
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大欅…この辺りに江戸城本丸の玄関があったとされます
 
江戸城本丸跡地には、色とりどりの木の実や美しい花が咲いています
 
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ムラサキシキブ(紫式部)
 
 
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ハゼノキ(櫨の木)
 
 
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フユザクラ(冬桜)…花弁が一重の桜です
 
 
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ジュウガツザクラ(十月桜)…花弁が八重の桜です
 
 
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時計回りに「ツワブキ・石蕗」・「ヒメリンゴ・姫林檎」・「キチジョウソウ・吉祥草」・「センリョウ・千両」・「ツバキ・椿」
 
 
汐見坂を下り二の丸庭園へ…ここからは葉の落ちた冬にはスカイツリーが見えます
 
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白鳥濠に映り込む芒が綺麗でした
 
 
…続きます…
 
 
 
 
 
 

 
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2014年11月23日(日)・11月30日には「神田川をめぐる旅の第4回」がありますので、その下見に出掛けました。当日は神田上水に縁のある小石川後楽園には入園しないとの事、下見を歩く前に紅葉真っ盛りの小石川後楽園に立ち寄りました。
 
 
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小石川後楽園・入口
 
 
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小石川後楽園の創設者達
 左「初代・徳川頼房」  中「徳川(水戸)光圀」 右「朱舜水(しゅしゅんすい)」
 
小石川後楽園は旧水戸徳川家の江戸上屋敷の回遊式築山泉水庭園です。水戸家の祖である徳川頼房は、1629年に三代将軍家光から与えられたこの邸地に回遊式庭園を築造、二代目藩主光圀も築庭に力を注ぎ当時隣国「明」の遺臣で日本に亡命していた朱舜水の意見を用いて造園しました。
 
まずは、ポスターや雑誌のグラビアなどでよく紹介される通天橋へと向かいました
 
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涵徳亭前の紅葉
 
後楽園の名は光圀が朱舜水に命じて選んだもので、「宋」の范文正の『岳陽楼記』の「天下の憂いに先んじて憂い天下の楽しみに後れて楽しむ」…″先憂後楽″により命名されました。特別史跡及び特別名勝に指定されています。
 
 
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着物のお人形をモデルに、プロのカメラマンが何人も撮影しています
 
 
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通天橋
 
大堰川と通天橋、その奥の音羽の滝の見えるこの辺りは、紅葉の絶景ポイントと言われていますが、人も多く日差しも強くいい写真は撮れませんでした。
 
 
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丘の上からの眺め…左の流れは「大堰川」、中の橋は「渡月橋」、右の池は「西湖」
 
 
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紅葉の内側から涵徳亭(かんとくてい)方面の眺め
 
 
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通天橋からの眺め
 
 
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円月橋…朱舜水の設計と言われ、小石川後楽園のシンボルです
 
 
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水面に映る形が満月のように見えることからつけられた名称です
 
 
神田上水は、関口大洗堰で水位を上昇させて分水され、江戸川橋から現在の「巻石通」を流れ水戸屋敷に入りました。水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出て、懸樋(水道橋)で神田川を渡りました。今度歩く″神田川をめぐる旅・第4回″のテーマとなります。
 
 
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園内を流れる神田上水
 
 
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神田上水の水門…もちろん今は神田上水ではなく遺構を流れるだけです
 
 
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田端…稲田
 
 この稲田は、徳川光圀が甥で養嗣子の徳川綱條の夫人に農民の苦労を教えようと作ったものだそうです。稲のひこばえが生えて「穭田(ひつじだ)」になっています。現在は文京区の小学生たちが田植え、稲刈りを行っているそうです。
 
 
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大泉園の蓬莱島
 
 
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水戸藩邸の書院の庭である内庭
 
大名屋敷の書院の庭園である内庭と、後方にある庭園「後園…後楽園」とに分かれていて、唐門で仕切らえていました。この内庭の池には睡蓮が咲きます。
 
 
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後方に立つ東京ドーム・ビッグエッグが池に映り込みます
 
 
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小石川後楽園正門…何時も門は閉じています
 
水戸徳川家上屋敷から神田川に架かる小石川橋を渡ると、まっすぐ道が江戸城に通じています。正門の紋所は「六つ葉葵」、徳川家の裏紋だそうです。
 
 
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東京工廠跡記念碑…維新後に後楽園の一部で兵器が作られていました
 
 
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美しい延段(のべだん)…切石と玉石を巧みに組み合わせた中国風石畳
 
 
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大泉園の蓬莱島と徳大寺石…絶景で多くのカメラマンで賑わっていました
 
 
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奥中央の丘は「小廬山」…中国的趣向の名が多くつけられています
 
散策後に涵徳亭でランチをと思ったら開店は12時…待つ時間が惜しくて諦め、近くの後楽国際ビル(日中友好会館)地下の中華レストラン「豫園」に入りました。これが大正解でした、本格的な美味しい中華料理がリーズナブルな価格でいただけます。
神田川の下見を終えて帰宅後、撮った写真をパソコンに取り込む時に誤って操作、後楽園で撮った写真は全部消してしまいました。″どうしよう~~″…翌日、キャノン→カメラを購入したヤマダデンキ→SDカードのサンディスクと電話…苦労しましたが何と復活出来ました…SDカードは消しても大部分は復活するそうです。何事も諦めずに相談することと知りました。
 
 
 

 
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寛永寺から言問通りの寛永寺坂を下り、寛永寺橋を渡ります。橋の下は山手線・京浜東北線・高崎線・常磐線等JRの幾本もの線路が並びます。標高20mとも言われる上野台地から根岸の低地へはかなりの高低差があり、橋の袂にはエレベーターも設けられていましたが、私たちは急な階段を下り、子規庵へ向かいました。
 
 
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子規庵
 
正岡子規は幕末の慶応3年(1876)松山市に生まれた俳人、歌人、国語学研究家で、日本の近代文学に多大な影響を与えました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、陸軍大将となった秋山好古や海軍中将・真之兄弟との交友が描かれ、テレビドラマなどでも馴染です。又夏目漱石とも深い交友がありました。若いときに結核を患い、明治27年には故郷松山から母と妹を呼び寄せこの子規庵に共に住みました。脊椎カリエスと診断されてからは子規庵に病臥しながら活躍しましたが、8年後の明治35年9月19日、糸瓜の句三句を絶筆として生涯を終えました(享年34歳11か月)
 
小さな子規庵の中は団体の人でいっぱいです。案内の方が、ひとまずお庭の方を見学くださいと…木戸をあけてお花の一杯咲いているお庭に出ました。
 
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正岡子規絶筆三句碑…写真は碑の裏側です…表に下の三句が刻まれます
 
この句碑は、子規没後100年を記念して平成13年9月19日に建立されました。子規は亡くなる前日の9月18日、妹の律と友人に助けられつつこの三句を唐紙に書き、その日のうちに昏睡状態となり、翌19日午前1時頃永眠しました。
 
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唐紙に書かれた「絶筆三句」…現物は国会図書館に寄贈されました
 
絶筆三句…「をとといのへちまの水も取らざりき」・「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」・「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」
 
9月19日の正岡子規の忌日を「糸瓜忌」と言います。又俳号の「子規」の意味はホトトギスの漢字表記からであり、喀血した自分を血を吐くまで鳴き続けると言われるホトトギスに重ねあわせました。子規の俳号に因んだ同人誌の「ホトトギス」は、子規から虚子の俳号を授かった高弟の高浜虚子が継承しました。
 
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糸瓜のぶら下がる棚…こんなに多くの糸瓜が成ったのは珍しいそうです
 
お庭から見た子規が病臥していた部屋で、部屋からはガラス戸越に庭に咲く草花が綺麗に見渡せました。当時輸入品で高価だったガラス戸は、友人からの贈り物として障子から替えられ、その時の子規の喜びあふれる思いは「果たしてあたたかい、果たして見える。見えるも見えるも…」と随筆に遺されています。
 
 
今咲いている花は「鶏頭」「藤袴」「秋明菊」「杜鵑」などでした。特に赤い鶏頭の花が目立ち、子規の代表的俳句「鶏頭の十四五本もありぬべし」を思い出しました。
 
 
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「ごてごてと草花植ゑし小庭かな」子規
 
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「三段に雲南北す今朝の秋」…子規庵保存に尽力した寒川鼠骨の句碑
 
規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。子規没後も、子規庵には母と妹が亡くなるまで住み、句会や歌会の世話を続けました。その後、老朽化と関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行い、子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)も建設しました。昭和20年の空襲により子規庵は焼失しましたが、幸い土蔵は残り貴重な遺品が残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で元のままに再建されました。子規庵は東京都文化史蹟に指定されています。
 
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子規文庫
 
 
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子規の病間…写真は絵葉書を写したものです…室内は撮影禁止でした
 
 NHKドラマ「坂の上の雲」で香川照之さんが演じた正岡子規が″はまり役″で、今でも心に残ります。妹の「正岡律」役の菅野美穂さんも、 親友「秋山真之」役の本木雅弘さんも印象的で、いいドラマだったと思います。 子規庵を後に、豆腐料理の「笹乃雪」の前を通り鬼子母神へ向かいました。
 
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「笹乃雪」前には子規の句碑が建ちます…「水無月や根岸涼しき篠の雪」
 
 
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寛永寺陸橋
 
 
鶯谷駅前から又言問通りをしばらく歩くと入谷の鬼子母神です。
 
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鬼子母神本堂…真源寺(しんげんじ)
 
「入谷の鬼子母神」は別称で、真源寺が正式名の法華宗本門流の寺院です。太田魯山人(太田南畝)の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」で有名であり、又7月の七夕前後に開かれる朝顔市でも知られます。
 
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鬼子母神は思いに反して真新しい御堂で、境内も狭く朝顔市はいったいどこでと思っていたら、朝顔市は言問通りを閉鎖し歩行者天国で行われるそうです。
 
 
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屋根を突き破る木…大切な木なのでしょう
 
 
江戸時代の文人、大田蜀山人作といわれる「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」…この「びっくり下谷の広徳寺」の広徳寺は現在の台東区役所付近にありましたが、関東大震災で被災し練馬区へ転出しました。練馬区に住んでいた時に何度も足を運んだ広徳寺には親しみがあり、旧地は何処かと調べ訪ねたことがあります。言問通りから昭和通を歩き台東区役所で休憩しましたが、疲れてしまいすぐ傍の″広徳寺跡″にはいきませんでした。写真は数年前に撮ったものです。
 
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広徳禅寺遺跡の碑…台東区役所の小さな″広徳児童遊園″内にあります
 
 
上野広小路から電車に乗り帰宅しました
 
 
 
 
 
 

 
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2014年11月19日(水)・夫が友人から日本国宝展のチケットを2枚戴いてきました。この国宝展には興味を持っていて、特に11月18日から11月30日までの期間限定で出品される「国宝・金印」は是非拝観したいと思っていましたので、夫と出掛けました。
 
 
上野広小路から上野公園を通り抜けて、東京国立博物館に向かいました
 
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上野鈴本演芸場…一度寄席の話を聞いてみたいです
 
 
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上野恩賜公園の碑
 
 
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寛永寺・清水観音堂…「月の松」が150年ぶりに復活しました
 
 
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「ヘブンアーティスト公演中」の幟旗が…ポールダンスのようです
 
ヘブンアーティストは、2002年に東京都の石原慎太郎都知事により創設された大道芸人の公認制度のことだそうです。このポールダンスは垂直の柱(ポール)を使った官能的なダンスで、うら若い美しい女性がアクロバット的に踊っていました。
 
 
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上野の桜の名所の桜紅葉
 
 
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大噴水脇のトウカエデ(唐楓)が赤く染まっています
 
 
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上野公園大噴水
 
この大噴水と東京国立博物館の景色は美しく絵になる光景です
 
博物館入口には「日本国宝展の待ち時間は40分」との張り紙があります。以前、2時間以上も並んだ記憶がありますから、40分なんてすぐだと思い安堵しました。
 
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国立博物館前のユリノキが綺麗に色づいています
 
 
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本館と平成館の間から見える″スカイツリー″
  
平成館から出てきた中学生らしき男の子が″並んでも見る価値があるよな~″と話しているのが耳に入りました。今回の日本国宝展には約120点もの国宝が集結しているそうです。その中で数点の国宝をじっくりとみて目と心に焼き付けたいと思い入館しました。館内はもちろん撮影禁止です…下の写真はネットから頂きました。
 
 
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玉虫厨子
 
法隆寺所蔵の飛鳥時代の仏教工芸品で、厨子とは、仏像などを安置する屋根付きの入れ物をいいます。法隆寺の玉虫厨子はもともと推古天皇の愛用品であり、仏像を安置するための厨子を玉虫の美しい羽で装飾したことからついたと言われます。厨子の四面に描かれている絵も素晴らしく、特に「捨身飼虎図」が心に残りました。釈迦が前世に飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせ、虎の母子を救う話です。1200年以上も前の御物とは思えない美しいお厨子で、教科書などで見て想像していたよりも遥かに大きく、高さ(鴟尾上部まで) 231.2㎝ありました。
 
 
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金印…「漢委奴国王印」
 
江戸時代の1784年頃、福岡県志賀島の甚兵衛という百姓が水田の耕作中に偶然発見したと言われ、福岡藩主黒田家から後に国立博物館へ寄贈、その後は福岡市博物館で保存されています。一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g…。文字は漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)と彫られています。、中国の『後漢書』に、西暦57に時の皇帝光武帝が使節を派遣してきた 「奴国 」 の王(現在の博多周辺にあった国の王)に金の印綬を授けたことが書かれており、その印綬が志賀島で発見された金印とされますが、その真偽はいまだ学会の謎とされているそうです。思っていたよりも小さく薄い金印でしたが、2000年の歳月を経ても黄金の輝きを失っていませんでした。
 
 
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三千院往生極楽院の・阿弥陀三尊坐像…写真はネットから頂きました
 
阿弥陀三尊坐像のうちの両脇侍が展示されています。京都を旅したときに、三千院で写経の後に往生極楽院の阿弥陀三尊坐像に拝観したことがあります。阿弥陀如来像は泰然と結加趺坐のお姿でしたが、両脇侍の仏像は「大和座り」と呼ばれる正座をしておられ、こちらに身を乗り出して優しく語りかけて下さるお姿に感動したのを覚えています。今日はその両脇侍の観音菩薩様と勢至菩薩様にお目にかかれます…手を合わせてから有難く拝観しました。
 
 
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左の像が右脇侍の「勢至菩薩坐像」・右の像が左脇侍の「観音菩薩坐像」で平安時代の仏像です。何時かもう一度三千院を訪ねて、丁寧な文字で写経をして心を浄めてから、又往生極楽院の三尊像にお会いしたいものと、心から願いました。
 
 
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 志野茶碗・銘「卯花墻・うのはながき」…三井記念美術館蔵
 
美濃の牟田洞窯で焼かれたものです。日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのはこの器と本阿弥光悦の白楽茶碗(銘不二山)の二点だそうです。
 
練馬区に住んでいた頃、近くの中野区上高田の「三井文庫」の展示物を何度か拝観したことがあり、この国宝の志野茶碗のことも記憶に残っています。その展示物は2006年に開館した日本橋の三井記念美術館に引き継がれていますが、当時は身近に至近距離で国宝を眺めることが出来ました。能面や茶碗ら、何等価値などわからぬままに、ただ本物の国宝を目にすることが出来た幸せに浸り感激しました。
 
 
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 和銅開珎…国宝「興福寺中金堂鎮檀具」
 
和銅開珎は日本最古のコイン、708年(和銅元年)に日本で鋳造発行された銭貨、流通貨幣です。秩父市黒谷から和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出し、朝廷に献上されました。時の元明天皇(天武と持統天皇の子・草壁皇子の正妃)は元号を「和銅」に改元し、和銅開珎が作られたとされます。
 
秩父鉄道で長瀞に向かっていた時の途中駅に「和銅黒谷駅」があり、ホームに和銅開珎のモニュメントがありました。駅から5分ほどの「聖神社」には、元明天皇から下賜されたとされる雌雄1対の和銅製百足像があるそうです。
 
 
国宝展を堪能し国立博物館を後にしました
 
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 嘗ては京成電鉄本線の「博物館動物園駅」のあった処…現在は廃止されています
 
 
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 寛永寺山門前の銀杏の黄葉
 
 
寛永寺坂を下り根岸の子規庵に向かいました…続きます
 
 
 
 
 
 

 
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2014年11月16日(日)・幼馴染からメールで″ランチをしながらお喋りしましょうよ…″と…もちろんOKです。友人は千葉県八千代市から毎週日曜日に、阿佐ヶ谷の教会礼拝に通ってますので、阿佐ヶ谷の駅前で待ち合わせることにしました。
私は西武池袋線の中村橋駅で降り、バスで阿佐ヶ谷駅に向かいました。思うところあって、一つ手前のバス停「世尊院前」で降り、欅並木の歩道を歩きました。
 
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阿佐ヶ谷中杉通りの欅並木
 
阿佐ヶ谷の地名の由来は、桃園川の浅い谷地であったからと言われます。練馬区民だった頃は何度か自転車で、この欅並木を通りました。渋い欅紅葉も好きです。
 
 
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阿佐ヶ谷ビール工房
 
阿佐ヶ谷に自家製ビール工房があることを初めて知りました。出来立てのビールを一階でも二階のレストランでも、屋上でも飲むことが出来るようです。いい処を見つけました…何時か″ウワバミメンバー″で是非来てみたいです。何と冬には暖かいビールの″ホットエール″もあるんですって…今日会う友人は″下戸″です。
 
 
前を通っても立ち寄ったことのなかった″世尊院″に興味がありました。
 
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世尊院山門…中杉通りに面しています
 
 
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世尊院本堂
 
1492年頃までこの地に宏大な寺領を持っていた大寺・宝仙寺が中野に移転した時に、その塔頭寺である世尊院が地元村民の寺として残されたと伝わります。
 
 
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修行大師の像…本堂裏に在ります
 
中杉通りを駅へと歩きましたが、まだ約束のAM11時には間があります。駅そばの″阿佐ヶ谷パールセンター商店街″を歩いてみました。
 
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ここは昭和10年頃から続く商店街で、戦後は闇市が多くたちました。阿佐ヶ谷駅南口から青梅街道までの約600mもの長さがある、アーケードの商店街です。各商店がそれぞれ真珠のような個性を磨き、首飾りのように商店同士が協力し合い結び合って、繁栄していこうという願いがこめられているネーミングだそうです。
 
 
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庚申塔とお地蔵様…パールセンターの中程に在ります
 
 
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待ちあわせのAM11時少し前に出会えました…数年ぶりでしたがすぐに幼い時の呼び名となりました。私は友人を″なこちゃん″と呼び、友人は私を″さこちゃん″と呼びます。生家は隣同士、小学校も中学校も高校も同じです。早生まれの私よりも数か月お姉さんですので、小さい時から何かと助けてもらった思い出があります。
 
 
35年も阿佐ヶ谷に通っている友人の情報で、美味しいと評判の中華レストランに入りました。11時きっかりに店の前に立ったら、もう小さなお店の中は人でいっぱいです。でも何とか席に着くことが出来ました…滑り込みセーフです。
 
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希須林・小澤
 
 
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頼んだランチは「小澤ランチ」
 
ここの看板料理は「海老のマヨネーズソース」…マヨネーズソースがしつこくなくて美味しかったです。もちろん酢豚も…ご飯はお粥です。
お喋りしながらゆっくり食べましたが、ふと入口を見ると何人もの人が並んでいます。やっぱり人気店です…落ち着かなくなってゆっくりと立ちあがりました。
 
 
木枯らしの吹く寒い日でした…パールセンターの商店街を覗いて歩きました
 
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美味しいと評判のスパゲッティミートソース専門店…何時かはいろうねと…
 
 
 
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諸国民芸・ねじめ商店
 
「高円寺純情商店街」で直木賞を受賞した作家・ねじめ正一さんが経営する店舗です。元々は高円寺商店街の乾物屋でしたが、ねじめ正一さんの父上・正也さんの趣味が高じて昭和41年に改装して民芸店となり、昭和47年の高円寺区画整理が契機となり、阿佐ヶ谷へ移転しました 。今度ゆっくりと中を覗いてみたいです。
 
 
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星乃珈琲店
 
ここでコーヒー飲んでみたいね…でも室内を覗いたら空席はありませんでした
 
 
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駅中のスタバでコーヒータイムとしました。ここでも延々と続くお喋り…なかなか話は尽きません。数年ぶりに会う幼友達…お互いに髪には白髪が増え、向かい合って話すと年月の経過を感じ、自分の顔を相手の顔の中に見る思いです。お互いに体に気を付けて、無理をしない程度に頑張りましょうね…また会ってお喋りしましょうね…。切りのいいところで腰を上げ、再会を誓ってさよならしました。
 
 
 
 
 

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