神田川に架かる東北上越新幹線の鉄橋下の歩道橋から、川岸の柳森神社や和泉橋を眺めました。ここは嘗ては柳が多く植えられた柳原土手でした。
神田川右岸の柳森神社
柳森神社・鳥居
柳森神社・社殿
室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社で、江戸三森神社の一つです(後の二社は、日本橋の椙の森神社と港区の烏森神社)
柳森神社の境内社の福寿社…本社と同等の鳥居です
福寿社・社殿
三代将軍家光の側室「お万の方」の部屋子として、京都堀川の八百屋の娘と言われる「お玉」が江戸大奥に入り、後に家光の寵愛を受けて生まれたのが5代将軍・綱吉です。その類いまれな強運から″玉の輿″という言葉が生まれたと言われます。
その将軍綱吉の生母・桂昌院によって江戸城内に福寿稲荷として創建されたのが福寿社です。大奥の女性の多くは「他を抜いて(たぬき)玉の輿にのった桂昌院の幸運」にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したといいます。
あちらこちらに狸像があります
柳森神社境内の富士塚
和泉橋上流部にある防災船着場…上流の橋は東北上越新幹線鉄橋
防災船着場のあるあたりは、江戸時代から神田佐久間河岸と呼ばれていました。ここから秋葉原貨物駅(嘗ては貨物専用の駅でした)まで運河が引かれて、東北本線で届いた薪炭や米などが、船溜まりの秋葉原貨物駅から荷積みされ、神田川水運を利用して各地に運ばれました。現在の秋葉原公園はこの運河の名残りです。
秋葉原駅前から神田川方向の写真…この幅が運河の幅だったと言います
秋葉原から浅草橋へと歩きます
浅草橋から上流の眺め…この辺りから屋形船が停留しています
浅草橋から下流の風景…レトロな船宿や佃煮屋が並びます
浅草橋から柳橋を望みます…終わりの神田川です
井の頭池に源を発し東へと流れること24.6km、都心を全て開渠で流れ下る神田川は、隅田川と合流してその名は尽きます。
柳橋からの上流の景色…奥の橋は浅草橋です
柳橋
柳橋欄干のかんざしのレリーフ…花街の名残りです
柳橋の袂の料亭「亀清楼」…創業安政元年
柳橋は幕末から明治期に繁盛した花街の老舗です。昭和初期には料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れていました。しかし時代の移ろいで、東京オリンピック後は衰退し廃業が続出、現在は唯一伊藤博文が贔屓にしたと言われる「亀清楼」の1軒だけが営業しています。幸田文氏の小説「流れる」も柳橋の置屋を舞台にした小説です。
柳橋の袂の佃煮屋「小松屋」
柳橋の碑
この碑の前で今回の「神田川をめぐる旅」の5回シリーズは終了です。
神田川と隅田川の合流する場面をもっとよく見たいので両国橋へ行きました。スカイツリーも美しく見えます。両国橋は現在は武蔵国内「東京」にありますが、1686年に国境が変更されるまでは川向うは下総の国でした。その為武蔵国と下総国の国境だったことから、両国橋と呼ばれました。
スカイツリーと隅田川…橋は総武線の鉄橋です
両国橋の途中には二か所にバルコニーのように膨らんだところがあります。そこからは神田川が隅田川に吸い込まれるように合流するところが、つぶさに眺めることが出来て感動的です。下の写真は2011年11月に船で隅田川から神田川に入った時の写真です。アングルが違う写真として載せてみました。
柳橋…2011年11月12日撮影
両国橋から浅草橋駅周辺に戻り、軽くビールとおつまみで休憩し、都営浅草線と都営大江戸線を乗り継いで帰路につきました。