きよかぜ便り

60の手習いで覚えたパソコンとカメラで楽しんでいます

2014年12月

 
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神田川に架かる東北上越新幹線の鉄橋下の歩道橋から、川岸の柳森神社や和泉橋を眺めました。ここは嘗ては柳が多く植えられた柳原土手でした。
 
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神田川右岸の柳森神社
 
 
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柳森神社・鳥居
 
 
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柳森神社・社殿
 
室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社で、江戸三森神社の一つです(後の二社は、日本橋の椙の森神社と港区の烏森神社)
 
 
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柳森神社の境内社の福寿社…本社と同等の鳥居です
 
 
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福寿社・社殿
 
三代将軍家光の側室「お万の方」の部屋子として、京都堀川の八百屋の娘と言われる「お玉」が江戸大奥に入り、後に家光の寵愛を受けて生まれたのが5代将軍・綱吉です。その類いまれな強運から″玉の輿″という言葉が生まれたと言われます。
その将軍綱吉の生母・桂昌院によって江戸城内に福寿稲荷として創建されたのが福寿社です。大奥の女性の多くは「他を抜いて(たぬき)玉の輿にのった桂昌院の幸運」にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したといいます。
 
 
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あちらこちらに狸像があります
 
 
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柳森神社境内の富士塚
 
 
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和泉橋上流部にある防災船着場…上流の橋は東北上越新幹線鉄橋
 
 
防災船着場のあるあたりは、江戸時代から神田佐久間河岸と呼ばれていました。ここから秋葉原貨物駅(嘗ては貨物専用の駅でした)まで運河が引かれて、東北本線で届いた薪炭や米などが、船溜まりの秋葉原貨物駅から荷積みされ、神田川水運を利用して各地に運ばれました。現在の秋葉原公園はこの運河の名残りです。
 
 
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秋葉原駅前から神田川方向の写真…この幅が運河の幅だったと言います
 
 
秋葉原から浅草橋へと歩きます
 
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浅草橋から上流の眺め…この辺りから屋形船が停留しています
 
 
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浅草橋から下流の風景…レトロな船宿や佃煮屋が並びます
 
 
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浅草橋から柳橋を望みます…終わりの神田川です
 
井の頭池に源を発し東へと流れること24.6km、都心を全て開渠で流れ下る神田川は、隅田川と合流してその名は尽きます。
 
 
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柳橋からの上流の景色…奥の橋は浅草橋です
 
 
 
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柳橋
 
 
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柳橋欄干のかんざしのレリーフ…花街の名残りです
 
 
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柳橋の袂の料亭「亀清楼」…創業安政元年
 
柳橋は幕末から明治期に繁盛した花街の老舗です。昭和初期には料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れていました。しかし時代の移ろいで、東京オリンピック後は衰退し廃業が続出、現在は唯一伊藤博文が贔屓にしたと言われる「亀清楼」の1軒だけが営業しています。幸田文氏の小説「流れる」も柳橋の置屋を舞台にした小説です。
 
 
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柳橋の袂の佃煮屋「小松屋」
 
 
 
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柳橋の碑
 
この碑の前で今回の「神田川をめぐる旅」の5回シリーズは終了です。
 
 
神田川と隅田川の合流する場面をもっとよく見たいので両国橋へ行きました。スカイツリーも美しく見えます。両国橋は現在は武蔵国内「東京」にありますが、1686年に国境が変更されるまでは川向うは下総の国でした。その為武蔵国と下総国の国境だったことから、両国橋と呼ばれました。
 
 
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スカイツリーと隅田川…橋は総武線の鉄橋です
 
 
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両国橋の途中には二か所にバルコニーのように膨らんだところがあります。そこからは神田川が隅田川に吸い込まれるように合流するところが、つぶさに眺めることが出来て感動的です。下の写真は2011年11月に船で隅田川から神田川に入った時の写真です。アングルが違う写真として載せてみました。
 
 
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柳橋…2011年11月12日撮影
 
両国橋から浅草橋駅周辺に戻り、軽くビールとおつまみで休憩し、都営浅草線と都営大江戸線を乗り継いで帰路につきました。
 
 
 

 
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2014年12月10日(水)…12月14日(日)に「神田川をめぐる旅・第5回)がありますが、その下見に出かける夫に付いていきました。当日も写真を撮りますが、念願だった神田川をめぐる旅ですので、その景色を見逃したくない気持ちからです。当日はJR御茶ノ水駅・聖橋口前に集合です…当日と凡そ同じルートを歩きました。
 
 
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太田姫稲荷神社・元宮の御神木「椋木・ムクノキ」
 
 
 
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大田姫稲荷神社社伝によると、室町中期に太田道灌の娘が天然痘を患い、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)に霊験があると聞いて道灌が祈願したところ治癒、道灌はこのことに感謝し一口稲荷神社を旧江戸城内に勧請しました。家康入府後はここ聖橋南詰の東側に遷座、明治になって名も太田姫稲荷神社に改められました。昭和6年には、御茶ノ水駅の総武線の拡張により駿河台2丁目に遷座、元宮には御神木の大椋木だけが残されました。
 
 
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ニコライ堂(重要文化財)
 
ニコライ堂は通称で正式名称は「東京復活大聖堂」であり、明治24年(1891年)に大主教・ニコライによって建立されたイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂です。ビザンチン様式の大聖堂の高さは35m、設計はミハイル・シチュールポフとジョサイア・コンドルが担当しました。関東大震災で大被害を受けましたが、一部構成の変更と修復を経て現在に至っています。
 
 
ニコライ堂の後聖橋を渡り湯島聖堂へ向かいました。聖橋は昭和2年に、関東大震災の復興橋として架けられ、名の由来は湯島聖堂と聖ニコライ堂の二つの「聖」を結ぶことに由来し、一般公募で選ばれました。
 
 
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聖橋と奥のお茶の水橋…写真は2011年11月に船から撮ったものです
 
 
 
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聖橋から湯島聖堂を望む…楷の木と銀杏が黄葉して美しいです
 
 
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神田川を渡る丸の内線
 
聖橋でカメラを構えていたおじ様は、丸の内線と総武線と中央線が同時に通る瞬間を待っているのだそうです。私もしばらく待ちましたが諦めました。
 
 
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湯島聖堂・大成殿
 
1690年、5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため湯島に聖堂を創建し、上野忍岡の林羅山私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。その100年後の1797年には幕府直轄学校の昌平坂学問所を開設しました。明治後は聖堂・学問所は新政府の所管となり、文部省やわが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれました。又東京師範学校(現・筑波大学)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)が置かれ、近代教育発祥の地となりました。
 
 
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入徳門と楷の木
 
 
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杏壇門(きょうだんもん)前から、楷の葉陰ににニコライ堂が望めます
 
 
 
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孔子像
 
孔子は紀元前552年に中国魯国昌平郷に生まれた中国春秋時代の思想家であり儒学の始祖です。この孔子像の前に植えられている楷の大樹は、曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木を植え継いだ聖木です(大正4年に種子を持ち帰り育苗しました)又孔子の銅像は、昭和50年中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈です。楷の木は中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶とも呼ばれる秋の黄葉が美しい木で、書道でいう楷書の語源ともなったといわれてます。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名されたそうです。
 
 
昌平橋を渡り、紅梅河岸高架橋へ
 
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左は紅梅河岸高架橋(JR中央線)下の店舗…右は総武線の鉄橋
 
 
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昌平橋下流の景色…奥の橋は万世橋・右はマーチエキュート神田万世橋
 
 
昌平橋を渡った処にある嘗て連雀町と呼ばれていた神田須田町、淡路町界隈には、大正から昭和初期の建築物が見られ、老舗飲食店が軒を連ねます。
 
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いせ源…1830年創業のあんこう料理専門店
 
 
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かんだやぶそば…1880年創業の老舗蕎麦屋
 
2013年2月夜の火災で、釣り行燈と看板以外は焼失しましたが、2014年10月20日に営業を再開しました。本日は休業日で名物の行列はありませんでした。
 
 
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ショパン…1933年創業の喫茶店
 
 
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ぼたん…明治30年ごろの創業の「鳥すきやき」店
 
 
老舗をぐるりとめぐりマーチエキュート神田万世橋前に来ました
 
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マーチエキュート神田万世橋の店舗…2013年9月14日にオープンしました
 
マーチエキュート神田万世橋には高架橋自体の煉瓦もメトロですが、古い1912階段と1935階段が実際に使われており、又当時のホームも展望デッキとなっていて、通過する中央線や総武線の電車を眺めることが出来ます。
 
 
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1935階段…鉄道博物館の新館建設時に新たに1935年に設置された階段
 
 
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1912階段…1912年の駅開業時に造られた階段
 
 
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1912階段上の旧ホームは、展望デッキとして、通過する電車を眺められます
 
 
 
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交通博物館当時のパネル
 
2006年まで此処には交通博物館がありました…(現在はさいたま市大宮区のの交通博物館い引き継がれています)
 
 
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万世橋の親柱と万世橋
 
 
 
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万世橋から眺めるマーチエキュート神田万世橋…奥の橋は昌平橋
 
 
 
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肉の万世…屋号の「万世」は本店近くにかけられた万世橋に由来します
 
 
…神田川をめぐる旅・第5回~下見②に続きます…
 
 
 
 

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乾門を出た後の大群衆は、北桔橋方面や北の丸公園方面へと向かっていますが、私は代官町通りを千鳥ヶ淵方向へと歩きました。
 
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 北白川宮能久親王銅像
 
北白川宮能久親王は伏見宮家の生まれで、最後の輪王寺宮(寛永寺貫主)として知られます。上野戦争の時には寛永寺に立てこもった彰義隊に擁立されるも敗北…明治26年、台湾征討近衛師団長として出征するも現地でマラリアにかかり薨去…皇族として初めて外地での殉職者となり、悲劇の皇族と言われています。
 
 
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東京国立近代美術館工芸館 …旧近衛師団司令部庁舎
 
 
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 代官町通りからも見える皇居の黄葉
 
 
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 代官町通り…土手の道「千鳥ヶ淵散歩道」を歩くこともできます
 
内堀通りの千鳥ケ淵交差点を竹橋方面に向かう通りを代官町通りといいます。皇居外周約5キロの皇居マラソンランナーがひっきりなしに通り抜けます。
 
 
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 土手からの眺め…千鳥ヶ淵は首都高速・都心環状線で分割されています
 
 
千鳥ヶ淵交差点から内堀通りを南へと歩きました
 
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 イギリス大使館
 
 
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 内堀通り三宅坂のユリノキも、ほとんど落葉しています
 
 
 
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 国立劇場…校倉造風の建物が珍しいですが中に入ったことはありません
 
 
最高裁判所角の三宅坂の信号で青山通りに入りました
 
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 永田町の青山通りも、銀杏の黄葉が美しいです
 
 
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 赤坂見附門跡(赤坂御門跡)
 
赤坂見附とは、現在の千代田区紀尾井町・平河町に存在していた「江戸城三十六見附」の一つです。近くの案内板には、″…江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました…″と書いてあります。江戸時江戸時する大山道の重要な地点でもありました
 代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点で
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赤プリの愛称で親しまれた赤坂プリンスホテルは2011年3月で閉鎖、再開発を進める西武ホールディングスは解体工事後、2棟の高層ビルを建築中です。
 
 
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 弁慶濠に架かる弁慶橋
 
 
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 建築中の高層ビル
 
 
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 弁慶濠
 
 
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 赤坂見附の信号から弁慶濠に沿った紀伊国坂の道は、ここが都心とは思えないほどの野趣に富んだ自然がいっぱいの道で、人もあまり通りません…好きな道です。
 
 
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 紀伊国坂(きのくにざか)
 
 
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 ホテルニューオータニとガーデンタワー
 
紀伊国坂を登り切った処から眺められる高級ホテル…久しく足を踏み入れていませんが、景色だけは大いに楽しませてもらっています。紀伊国坂の名のごとく、ここは江戸時代に坂の西側に紀州藩の上屋敷があったことから名付けられました。
 
 
紀伊国坂を登り切った西側は迎賓館です
 
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迎賓館・門
 
迎賓館は1909年(明治42年)に東宮御所として元紀州藩の屋敷跡に建設されました。設計は建築家・ジョサイアコンドルの弟子にあたる宮廷建築家・片山東熊です。
今年の8月には、平成26年迎賓館参観に応募した友人数名が当選して、館内を見学しました。来年は私も応募してみようかしらと…当選確率は非常に低いです。
 
 
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 おとぎの国の城門のようです
 
 
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 門の隙間から、中を覗いてみました
 
 
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 迎賓館前の若葉東公園
 
 
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 若葉東公園のユリノキ…黄昏色の葉も美しいです
 
 
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 四ツ谷駅への道筋のユリノキ
 
 
乾門通り抜けの後に歩いた代官町通りも三宅坂も青山通りも紀伊国坂も、12月なのに木々は晩秋の黄昏模様、まだまだ終いの紅葉・黄葉をめでることが出来ました。四ツ谷駅から丸の内線に乗り帰路につきました。
 
 
 
 

 
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2014年12月7日(日)…天皇陛下の傘寿を記念した「秋季・皇居乾通り通り抜け)が、12月3日(水)から12月7日(日)の5日間開催されますが、今日はその最終日です。同行する予定だった夫が急遽別の用事が出来たために、独りで出掛けることにしました。今年の「春季・皇居乾通り通り抜け」にも行っていますが、その時には2時間以上も行列に並びました。今回は時間をずらせて午後1時過ぎに並びました。
 
 
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行幸通りと東京駅
 
春季には大手門近くの巽櫓付近からの行列でしたが、今回は二重橋からの行列です。大手町駅からも東京駅からも桜田門方面からも、続々と人が集まります。
 
 
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坂下門前の行列
 
集まる人の数は多いですが長く留まることはなく、坂下門前で20分ほど待たされただけで、PM1時30分頃には入門し乾通りに入ることが出来ました。
 
 
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宮内庁庁舎
 
 
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富士見櫓…皇居東御苑からは櫓の裏手を見ることが出来ます
 
 
 
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皇居内・山下通りの紅葉
 
 
 
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トウカエデ(唐楓)
 
 
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皇居内・局門
 
 
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富士見多聞と手前の蓮池濠
 
多聞とは、防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫のことで、江戸城本丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのはこの富士見多聞だけだそうです。中には鉄砲や弓矢が納められていました
 
 
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蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さが約20mにもなる石垣で、東・南・西の三面いずれも激しく屈折しています。石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれています。
 
 
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富士見多聞と蓮池濠は、皇居1周しても東御苑内からも見ることのできない景色です。紅葉の盛りは過ぎていましたが、この景色を眺められるだけで満足です。
 
 
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西桔橋を渡り、東御苑に向かう人々の群れ
 
 
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西桔橋(にしはねばし)は、内濠の乾濠と蓮池濠の間に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいます。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門がありましたが、現在は石垣の一部が残っているだけです。
 
 
前回の春季通り抜けの時には、この西桔橋を渡って東御苑へ入りましたが、今回は乾門から出ることにしました。西桔橋は私にとってはネットで見るだけの幻の橋でしたので、小さな橋を渡った時には感動しました。
 
 
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道灌濠…紅葉は盛りを過ぎていました
 
 
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イロハモミジが空に広がり、傾いて来た陽に輝きます
 
 
 
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乾濠から竹橋方向の景色
 
 
 
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北桔橋門の白い築地塀と石垣の反りが美しいです
 
 
 
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 北桔橋を渡り東御苑に向かう人々が見えます
 
 
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真っ赤に染まったイロハモミジ
 
 
 
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乾濠寄りの少し遠い処に見事な紅葉のモミジが…綺麗との歓声が上りました
 
 
 
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乾門の手前で振り返った風景…この日の入場者は84,980名だったそうです
 
 
 
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乾門…乾門は明治になってから建立された京風の御門です
 
 
乾門前から代官町通りを通って千鳥ヶ淵へ出て、青山通りを赤坂見附へ、外堀通りを四ツ谷へと歩きました…続きます。
 
 
 
 
 
 

 
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無縁坂をまっすぐに登ると東大医学部の″鉄門″へ突き当たりますが、今回は左折して旧岩崎邸裏の道を歩きました。モダンな建物がありました…三菱経済研究所・三菱資料館です。写真撮影をしていたら、丁度玄関に向かっていた所員の方が″資料館にお入りになりませんか、詳しくご説明いたしますよ″と…もちろん御辞退しました。所員の言葉も冗談だったのかも…経済には疎くて理解できません。
 
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三菱経済研究所・三菱資料館
 
 
 
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切通公園…この辺りの旧地名は「湯島切通町」でした
 
 
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湯島天神大鳥居…手前の道が春日通・切通坂
 
切通公園をぬけると目の前は春日通の切通坂です。切通坂は湯島3丁目と4丁目の境を湯島天満宮の北脇から東に下がる切通しの坂道です。″湯島の白梅″の三番目の歌詞には♪青い瓦斯燈 境内を出れば本郷切通し あかぬ別れの中空に 鐘は墨絵の上野山♪…と、あるそうです。
 
 
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湯島天満宮・表鳥居…寛文7年(1667)刻銘の銅製の鳥居です
 
 
 
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湯島天満宮・拝殿
 
湯島天神は雄略天皇二年(458)に勅命により創建と伝えられる古社です。1355年に菅原道真公が祀られたことから学問の神様として知られ、毎年春には多くの合格祈願者が訪れます。泉鏡花の「婦系図」に登場する事でも知られます。
 
 
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ガス燈…湯島天神境内に点燈しています
 
電気のない時代に、文明開化の象徴とされたガス燈が最初に燈されたのは、1872年(明治5年)に横浜の馬車道や本町通りででした。電燈に取って代った現在、点燈する屋外のガス燈としては、東京都内唯一のものだそうです。
 
 
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湯島天満宮・男坂
 
 
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湯島天満宮・女坂
 
 
 
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湯島天満宮・撫で牛
 
 
 
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湯島天満宮・境内庭園と泉鏡花の筆塚
 
 
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湯島天神・唐門の扉の紋章…「牛」と「梅」
 
 
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湯島天神唐門前の「珪化木・けいかぼく」…木の化石
 
 
湯島天神を後に、春日通の切通坂を上り鱗祥院へ向かいました。坂の途中の石屋の前に、花輪の冠の何とも愛らしいお地蔵様が並んでいました。
 
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それぞれに表情も仕草も違う6体のお地蔵様です
 
 
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横を向いたお地蔵様と、耳の後ろに手をかざすお地蔵様
 
 
 
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麟祥院山門
 
 
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境内の紅葉
 
 
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麟祥院・本堂
 
麟祥院は、徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺です。周囲にカラタチ(枳殻)を廻らせていたことから「からたち寺」とも呼ばれます。1624年、春日局の隠居所として創建されましたが、後に春日局の法号を持って麟祥院と号されました。
 
 
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春日局のお墓
 
 
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春日局の墓は無縫塔(卵塔)で、死後も正道を正すために、四方に穴があるる珍しいお墓です。1989年に放映されたNHK大河ドラマ「春日局」は大原麗子主演で人気を博しました。その年には通常非公開の鱗祥院内部が特別公開され、長い行列に並んで義母や夫と共に拝観したことがあります。春日通の名も春日町の名も春日局が住んだこの地に由来しているそうです。
 
 
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東洋大学発祥の地の碑
 
明治20年(1887)に井上円了が麟祥院の境内の1棟を借りて、東洋大学の前身である「哲学館」を創立しました。中野区の哲学堂公園とも所縁の深い地です。
 
 
 
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洋品店「かねやす」
 
今日の本郷界隈の散策″かねやすからかねやすまで″は、開店営業している″かねやす前″で無事終了しました。まだ陽の高い午後二時前です…奥方の何時もより早い御帰宅に、御留守の殿方は驚かれましたでしょうか。
 
 
 
 

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