きよかぜ便り

60の手習いで覚えたパソコンとカメラで楽しんでいます

2015年02月


イメージ 1


旧中山道・板橋宿を歩いて約1時間、板橋観光センターで小休憩しました

イメージ 2
板橋観光センター


イメージ 3
玄関先にはwelcomeの看板があり感激しました…有難うございます


イメージ 4
板橋観光センター内の「縁切榎の初代の木」

板橋区では、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」の方々が、地元のホットな情報をもとに、もてなしの心で案内してくださいます。センター内もいい雰囲気でした。


イメージ 5
板橋宿・仲宿…手前の道は王子新道です

王子新道は、仲宿手前と王子を結ぶ約2キロの道です。明治17年の大火の後住民は、生計の為に工場のある王子へと働きに出ましたが、道はとても不便でした。その為明治21年に、板橋宿の中央から旧加賀藩邸内を通り、 王子飛鳥山へ至る王子新道が完成しました…ふと足元を見るとこんな絵柄のタイルが道にあります。

イメージ 6
「かたつむりのマーク」は東京都「歴史と文化の散歩道」の標識です

遍照寺…江戸時代は区内屈指の寺院であり「馬つなぎ場」のあった処です

イメージ 7

遍照寺は明治に入り一時廃寺となりましたが、現在は成田山新勝寺末寺となっています。この遍照寺境内には旧宿場時代に馬つなぎ場があり、中山道では各宿に50頭の馬が常備され継立に備えていました。今は当時の面影は全くなく、馬頭観音や庚申塔の石塔だけが、境内片隅に祀られています。


イメージ 8
文殊院…本陣家、名主家の飯田家の菩提寺です


イメージ 9
文殊院本堂前の鐘…同行の友人が撞木を突いたら、いい鐘の音が響きました


イメージ 10
文殊院境内、閻魔堂…右側が奪衣婆(だつえば)

奪衣婆(だつえば)は、三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆です。又民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれ、彼方此方のお寺でこの像を見かけます。
何時だったかテレビで放映した「釣りバカ日誌」で、浜ちゃんこと西田敏行さんが夢の中で奪衣婆の格好をして現れ、1万円札しか持っていない(六文銭がない)スーさんこと三国連太郎の衣服をはぎ取る場面があり、大爆笑したことがあります。


イメージ 11
仲宿・脇本陣跡…和宮降嫁の際の宿泊所

和宮は有栖川宮家の長男熾仁親王と婚約していましたが、幕末の「公武合体」により、幕府の権力を回復させようと強引に推し進められた末に、降嫁を泣く々承諾しました。1861年10月20日、15歳の和宮が14代将軍家茂との婚儀のために京都を出発、攘夷派の妨害を避けるため、東海道ではなく、中山道を経由して江戸に向かいました。そして26日後の11月14日に無事板橋宿に到着しました。


イメージ 12
唯一の和宮の写真…写真はネットから頂きました

江戸へ向う途中、信州の小坂家で休息され折小坂家写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真で、ガラ乾板で軍扇に収められています。


イメージ 13
皇女和宮が降嫁の際に使用した駕籠…写真はネットから頂きました

幕府からのお迎えが2万人、道中警備のために動員された町人・農民らを含めると総勢20万とも数十万人ともいわれ、行列は50kmに及んだとされます。
警備のお礼として下賜された駕籠は千葉県一宮市の寺院に保存されています。


イメージ 14
増上寺・和宮像…写真はネットから戴きました

関東の荒武者を想像していましたが、将軍家茂は眉目秀麗な青年で思いやりがあり夫婦仲はよかったと言われます。家茂が京入洛の時に、お土産は何がいいかと尋ねたのに対し、和宮は「西陣織を」と…ところが家茂は急病となり大阪城で20年の生涯を閉じました。和宮は形見となった西陣織を抱きしめて「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」と、泣いたそうです。
又、増上寺の和宮の墓地を改葬した際、胸のあたりに1枚のガラス版の写真が添えられていて、数人の学者が直垂姿の若者の姿を確認しましたが、翌日にはただのガラス版になっていたそうです。和宮は脚気の病の為、箱根塔ノ沢で亡くなりました

イメージ 15
板橋…地名の由来となった橋は手前の石神井川旧路に架かる橋です


イメージ 16
江戸名所図会に描かれた「板橋」


イメージ 17
板橋の橋の袂の道標…この橋から京寄りが上宿です


イメージ 18
板橋から見た石神井川下流…王子方面への流れ


イメージ 19
縁切り榎…将軍に降嫁した各宮家や皇女和宮の行列はここを迂回して通りました


イメージ 20
「榎・エノキ」と「槻・ツキ…ケヤキの別名」が並んで生えています

中山道沿いのこの地は、大きな榎が生い茂る薄気味わるい場所で、何時の頃からか、この木の下を通る嫁入りは必ず不縁になると言う信仰が生まれました。原因の一つは「榎・エノキ」と「槻・ツキ」が並んで生えていて、これを「縁が尽きる」と語呂合わせして読んだ為と言われます。今も2本の木が並んで生えていますが、榎の木の皮を煎じて飲めば、縁切りに効用があるとされて剥がされることが相次ぎ、防御の為に木は竹のバリケードにに覆われています。


イメージ 21
縁切り榎の碑文

今日の板橋宿散策はこの縁切り榎の前で散会となりました。"いたばし観光ボランティア「もてなしたい」"の方の丁寧な説明と共に楽しく散策できました。有難うございます。さて昼の時分時です…お腹も空いてきました。

イメージ 22
板橋宿・上宿の旧中山道…緩やかな曲がり道です

「力士料理・クララ」…レトロな垂れ幕のお店でランチにしました
 
イメージ 23
環七と中山道が交差、上も幾重にも交差しています

ゆっくりとお喋りしながらのランチ、牛筋の煮込みは美味でした…帰り道は環七をバスで…どのバス停で降りるのかを教えてもらい、無事帰ることが出来ました。








イメージ 21


2015年2月20日(金)・パソコンを楽しむ会の友人達7人で、板橋散策に出かけました。JR板橋駅前には、板橋観光ボランティアの方2名が待っていてくださり、早速ご案内して戴きました。板橋駅のホームは、北区滝野川、板橋区板橋、豊島区上池袋の境に存在し、端から端まで歩くと三区内を歩いたことになるそうです。

イメージ 2
JT埼京線・板橋駅

駅前広場からすぐの所に近藤勇と新撰組の供養塔がありました

イメージ 20

幕末の5年間、京都にて会津藩主・松平容保の元で幕府体制維持の為に活躍した新選組組長・近藤勇、副長・土方歳三、及び隊員たちの供養塔です。新撰組隊員・永倉新八らが発起人となり明治9年に建立されました。


イメージ 3

1867年、京都二条城に於いて15代将軍徳川慶喜は大政奉還しました。その後明治新政府と旧幕府との間の武力衝突である「鳥羽伏見の戦い」が起りましたが幕府軍は敗退し、江戸に帰還しました。近藤勇は再起を企て甲州に出兵しますがそれも成らず、官軍に捕まり板橋宿の平尾宿脇本陣に軟禁されます。

イメージ 4
「近藤勇の埋葬当初の墓」

1868年4月25日、板橋平尾宿の一里塚近くで近藤勇は処刑されました…享年35歳でした。近藤勇の首は京都に送られましたが、処刑の瞬間を目撃した近藤の娘婿である近藤勇五郎が、勇の故郷である武州多摩郡上石原村(現在の調布市)から人手を集めて刑場に戻り、見張り役の役人に金包を握らせ、首のない勇の亡骸を掘り起こして勇の生家宮川家の菩提寺である多摩郡大沢の龍源寺に埋葬したという話が、子母澤寛の小説「新選組始末記」にあります(ネット検索)


イメージ 18

長い間近藤勇は悪人と思っていましたが、NHKの大河ドラマ「新撰組」で近藤勇役の香取慎吾 さんを見てから、近藤勇への思いが変わりました。野川公園傍の近藤勇の生家へも、菩提寺へも何度か訪ねたことがあります。その時代の国家警察の役目だった新撰組を思うと、時代が変わった後の政治犯とは何なのかと思います。


道を歩いていると交差点が小高くなってます

イメージ 5
この道路の下には千川上水が暗渠になっています


イメージ 6
板橋駅西口前の「結びのけやき」…縁切欅にあやかった名前です


イメージ 1
川越街道・平尾追分

日本橋を出発した中山道の最初の宿場が板橋宿で、日本橋側から平尾宿、中宿、上宿の三宿に分かれています。川越街道は平尾宿の中の「平尾追分」が起点となっていました。現在の川越街道からは少し離れています。

イメージ 22
木曾街道・板橋乃駅(平尾宿)


イメージ 7
東光寺・山門


イメージ 8
東光寺・本殿…創建は室町時代と伝わります


イメージ 19
左から2番目は寛文2年(1662)の庚申塔…右側は江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像です。庚申塔裏の銀杏は、明治17年の大火にも耐えた木であると、ガイドさんの説明がありました。


イメージ 9
宇喜多秀家の供養塔

宇喜多秀家は戦国時代の武将です。元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ秀家と名乗り、秀吉の猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)豪姫を正室にしました。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川軍に敗れ、処刑は免れましたが嫡男、次男、従者と共に八丈島ヘ流島となりました。秀家は35歳から亡くなる83歳まで一度も島外に出ることはありませんでした。前田家よりは白米などの援助物資が幕末まで続いたそうです。明治3年に、秀家の子孫71人が内地帰還を許され、遠縁である前田家の板橋平尾宿の下屋敷内に住まいました。供養塔はその子孫によるものです。


イメージ 10
板橋宿の商店街…浅間山と月とウサギの"ラッピー"


イメージ 11
如意山・観音寺


イメージ 12
庚申塔…(1661年造立)青画金剛像が彫られたものとしては、都内では最古です


イメージ 13
境内の稲荷神社…元加賀藩下屋敷内に祀つられていた三稲荷の内の一社


イメージ 14
観明寺・本堂


イメージ 15
観明寺境内の不動明王像


イメージ 16
板橋宿平尾町脇本陣


イメージ 17
「緑宿広場」…中山道の69宿が飛び石になっていています

中山道は、東海道・日光街道・奥州街道・甲州街道と共に5街道の一つで、お江戸日本橋から京都三条大橋まで約534km、69宿ありました。因みに東海道は492㎞、53宿ありました。中山道は険しい山中の道が多いですが大河がなく、旅程が組みやすいこともあり、旅人によく利用されたそうです。

…板橋散策②に続きます…





イメージ 1

大噴水から水鳥の池へ…池のカモは羽毛の中に首を突っ込んで休んでいます

イメージ 2
ここからの水鳥の池の風景が美しいです


イメージ 3
冬枯れの葦原…寂れた風景が広がります


イメージ 4

上の写真の反対側の葦原です…葦と書いて「アシ」とも「ヨシ」とも読みます。「ヨシ」の和名は、「アシ」が「悪し」に通じるのを忌み、逆の意味の「良し」と言い替えたのが定着したものである…と検索では書いてありますが、いまいち理解できません。


イメージ 5
クリスマスローズ…水鳥の池の傍に沢山咲いていました


イメージ 6
靍田清二作「花咲くころ」


イメージ 7
クリスマスローズ


イメージ 8
スノードロップ


イメージ 9
クロッカス


イメージ 10
パンジー

水鳥の池から花木園を通り"みんなの原っぱ"の西側に出ました

イメージ 11
原っぱの大欅の向うには、お揃いの運動着の生徒達が勢揃いしています

渓流広場や子供の森を抜けて、日本庭園へと向かいました

イメージ 12
庭園入口の白梅が見頃です…芳しい香が漂います


イメージ 13
赤松の雪吊が水面に映えます


イメージ 14
滝の流れが池にそそぎます


イメージ 15
見事な姿の赤松


イメージ 16

昭和記念公園の日本庭園は、平成9年4月に完成した池泉回遊式庭園です。桜の季節、菖蒲の季節、紅葉の季節もさぞ美しいことでしょう。

公園を一巡りして、いろんな野鳥に出会いました。動きがすばしこく、なかなかカメラには捕えられませんでしたが、何とか写っていた野鳥を紹介します。

イメージ 17
ツグミ(鶫)
ツグミはシベリアから大群で渡って来る冬鳥ですが、日本に到着するとばらばらになって生息するそうです。草むらを走り、得意の上を向くポーズをとります。


イメージ 18
ムクドリ(椋鳥)…動きが素早く、なかなかカメラに収まりません


イメージ 19
ジョウビタキ♂(尉鶲・雄)…背を向けたままで振り向いてはくれません


イメージ 20
キジバト(雉鳩)…別名「ヤマバト・山鳩」とも呼ばれています


イメージ 21
モズ♀(百舌鳥・雌)…羽に白斑がないので雌だと思いますが…


イメージ 22
急いで望遠レンズに変えてやっと撮ったモズの写真です

モズは全長20㎝程、小さな体なのに、嘴はタカのようにカギ型をしており、小鳥を捕らえたりもします。モズは生け垣などのとがった小枝や、有刺鉄線のトゲなどに、バッタやカエルなどのえものを串ざしにする変わった習性があることで知られ、日本ではこれを「モズのはやにえ」と呼んで有名です(サントリー・日本の鳥百科より)


イメージ 23

砂川口への帰り道で、先程みんなの原っぱで見かけた生徒達が、走っている処に遭遇しました。男子生徒も女子生徒もいます…皆苦しそうに走っていました。

砂川口を出て、来た道を戻りました。今日は富士山にもセツブンソウにも、モズにも出会えたいい日でした。ペダルも軽く、疲れも感じずに帰宅しました。





イメージ 1


2015年2月16日(月)・ネット検索では、昭和記念公園のセツブンソウも満開との情報です…久しぶりに自転車で出掛けることにしました。前回は雑木林の道を通って泥んこになりましたので、今回は別の道を開拓しました。野火止用水緑道と小川用水の流れる立川通りを通ります…昭和記念公園までは約1時間15分要しました。

イメージ 2
野火止用水…用水路の傍らの道は緑道になっています


イメージ 3
小川用水…玉川上水の小川橋から分水された用水です

立川通りから途中右折して"すずかけ通り"を西へ…陸上自衛隊立川駐屯地のフェンスの向こうに、白い山が見えてきました…富士山です。

イメージ 4
陸上自衛隊立川駐屯地からの富士山

陸上自衛隊立川駐屯地の西側が「国営・昭和記念公園」です

イメージ 5
国営・昭和記念公園…砂川口売店

昭和記念公園は、昭和天皇御在位50年記念事業の一環として、米軍の旧立川基地跡のうち165.3haを記念公園として建設したものです。砂川口から入り、入園料金¥410を支払い、自転車置き場に自転車を止めて、時計回りに歩いて廻りました。

イメージ 6
こもれびの池…池端の紅梅は3分咲きです

砂川口売店の職員の方から、詳しい花情報を聞きました。セツブンソウはこもれびの里の休憩棟の前に咲いているそうです…早速訪ねました…綺麗に咲いています

イメージ 7
セツブンソウ(節分草)

イメージ 8


イメージ 9

セツブンソウは花丈が3㎝程、花径も1㎝位の小さな花です…どのカメラマンもひざまずいて、地面に伏すような格好でシャッターを押しています…皆寡黙です。


イメージ 10
サンシュユ(山茱萸)…蕾が開いたばかりです


イメージ 11
マンサク(万作)…東北の方言"まんずさく"が語源と知ると親しめます


イメージ 12
ニシキマンサク(錦万作)
花弁の付け根の所だけ赤いマンサクを、ニシキマンサクというそうです


イメージ 13
アセビ(馬酔木)…まだ蕾の方が多いです


イメージ 14
みんなの原っぱ…お花畑には"菜の花育成中"の看板がありました

原っぱを横切って歩いていると、大欅の向うに富士山が見えました

イメージ 15
富士山

イメージ 16

今日は二度も富士山が拝めました


イメージ 17
公園内を流れる残堀川…水は流れていません


イメージ 18
梅園の紅梅は3分咲き


イメージ 19
この白梅は5分咲き…芳しい香りが漂っていました


イメージ 20
蕊の長い白梅


イメージ 21
八重の白梅


イメージ 22
刈り込まれた銀杏並木と噴水…冬錆びる景色です


イメージ 23
大噴水とカナール…やっぱり銀杏の黄葉の時の景観がいいです

…2月の昭和記念公園②に続きます…






イメージ 1


鴫立庵から大磯駅に戻りました。駅前から旧東海道を歩いて高麗山や高来神社へ行きます。駅前の観光センターに立ち寄ると、観光ガイドマップを広げて丁寧に道順を教えてくれました。下の写真は東海道線の大磯駅手前で写した高麗山の写真です。安藤広重の"東海道五十三次・平塚の宿"にも描かれている山です。。

イメージ 2
東海道線の車窓から見た高麗山

前回は車で廻りましたので、大磯の旧東海道を歩くのは初めてです。少しだけですが浮世絵に描かれたような傾いた松並木が残り、江戸の風情を感じさせてくれます。車も人もあまり通らず、のんびりと歩くことのできる道でした。

イメージ 3

この辺りは日本橋から八番目の、大磯宿のあった処です

イメージ 4

道筋のあちこちには、錦絵の描かれた案内板があります

イメージ 5
安藤(歌川)広重・東海道五十三次「大磯・虎が雨」

有名な曽我兄弟の仇討…その曽我十郎が仇討ちの果てに命を落としたのが陰暦5月28日…愛人であった大磯の遊女・虎御前が流した涙が雨となったという故事から、梅雨時のしとしと降る雨を大磯では「虎が雨」と言うそうです。


イメージ 6

視界に高麗山が見えてきました

イメージ 7
「化粧坂の一里塚」…日本橋より16里の処で小休憩の場所だったそうです


イメージ 8
「化粧井戸」…案内板の奥に古い井戸があります

この近くに住んでいた虎御前が、朝な夕なにこの井戸水を汲み化粧をしたそうです


イメージ 9

ここに寺領傍示杭がありました。大磯宿と高麗寺村の境界であり、下馬標が立っていました。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼して静かに寺領内を通ったのだそうです。


イメージ 10
高来神社(高麗神社)・一の鳥居


イメージ 11
高来神社二の鳥居…右の社殿は慶覚院(高麗寺の寺宝が安置されています)

高来(たかく)神社は、もとの名を「高麗神社、高麗権現社」と言い、創建は神功皇后(170~269)の三韓征伐(新羅出兵)に勝利した際に、重臣の 武内宿禰が高麗大臣和光を奉ったのが高麗権現社の起源と言われます。

イメージ 14
高来神社・社殿

高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)は666に高句麗の使者・玄武若光として来日しますが、668唐と新羅との連合軍によって高句麗が滅ぼされた為、若光は高句麗への帰国の機会を失い、大磯の高麗山の麓に住みました。703年、文武天皇より高麗王(こまのこきし)氏姓を賜与され、716年に武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道7カ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させました(続日本書紀)。その際高麗王若光は高麗郡の郡司に任命された為大磯を去りましたが、その後も大磯の住民はその徳を慕い、高麗寺(高来神社の別当寺・現在は廃寺)を建立して若光の霊を祀ったと伝わります(日高市・高麗神社ホームページを参照)


イメージ 12
高麗山山頂への登山口

江戸時代初期、高麗寺には、徳川家康の神影である東照宮が祀られていたため、参勤交代の際、諸大名は下馬して参詣しなければなりませんでした。しかしこれが仇になり、徳川幕府滅亡と共に、徳川色を消し去りたい明治政府によって寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され、高麗神社だけが残りました。


イメージ 13
廃寺される以前の「高麗寺領境内見取り図」

明治30年に高麗神社は、戦国時代に相模国大住郡に新設された「高来郷」に由来する名の高来神社に改称され、今に至っています。


イメージ 15

高麗山の山頂へと登り始めました

イメージ 16

男坂は急傾斜で最大傾斜は60度もあるとの情報…女坂を上りました

イメージ 17

倒れて割れた石碑

イメージ 18

木々の隙間からの眺め

イメージ 19

江戸時代末期までは山全体が高麗寺の霊域として保護され、樹木の伐採が禁じられており、不気味なほどの手つかずの樹林が広がります…谷間は深いです。

イメージ 20
最後の石段の上が山頂です

女坂でも傾斜のきつい坂道です…途中二度の小休憩をしました

イメージ 21
山頂の旧高麗神社上宮跡…小さな石の祠が置かれています

高麗山は標高167.3mです…樹林に囲まれて薄暗く、眺望はありません

イメージ 22
嘗て山頂に鎮座していた上社・高麗権現社(昭和49年撮影)…昭和55年に撤去

神様のロッククライミング…大磯を代表する春の祭、高麗寺祭(こうらいじまち)は高麗寺のご本尊のお祭で、江戸時代の寛永年間の頃に始まりました。御魂を載せた神輿は午後6時過ぎの暗闇の中を出発し、高麗山の上宮まで男坂を運び上げます。重さ250㎏の神輿を太い引き綱で引き揚げるのだそうです。山頂の上宮で仮宿している間、麓の神社周辺では植木市が開かれ賑わうそうです。御霊は3日間の祭が終わると、頂の上社から比較的なだらかな女坂を約1時間掛けて麓の高来神社に帰還し、神事や舞が奉納されるそうです…初めて知った祭りでした。


イメージ 23
男坂を上る御神輿…写真はネットから頂きました

東海道線の車窓から見える高麗山は、映像や写真で見る"神さびる大和の山々"に似ていると感じていました。数年前に偶然高来神社の鳥居前を通り、この神社が日高市の高麗神社と深いかかわりがあることを知り、興味を覚えました。そして何時か神社にお参りし、御神体である高麗山にも登りたいと念じていました。今回神社の案内板で、廃寺になった高麗寺のお祭りが、いまだに地元の人々の熱い思いで引き継がれていることを知り、深く感動しました。

高麗山の往還には約1時間要しました…女坂とはいえきつい坂道でした。神社近くのバス停からバスに乗り平塚駅へ…駅前のファミレスでゆっくりと食事をとりました。

イメージ 24
平塚駅

今日は標高136.2mの吾妻山と、標高167.3mの高麗山の2峰を踏破したことになります。少し疲れました、明日は筋肉痛になること請け合いです。特別快速の湘南新宿ラインに乗り、座席も確保できてうとうとしながら帰途につきました。





↑このページのトップヘ