二宮駅から上りの東海道線に一駅乗り、大磯駅で降りました。駅前のこんもりした森の中には「澤田美喜記念館」・「エリザベス・サンダース・ホーム」があります。
澤田美喜は三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の孫として生まれました。戦後の混乱の中でアメリカ占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のためにエリザベスサンダースホームを設立しました。この敷地には元々岩崎家の別邸がありましたが、戦後の財閥解体とともに、岩崎本家は財産税として大磯駅前の別邸を政府に物納しました。澤田美喜はこの土地を政府から買い戻し乳児院を建てようとし、自分の財産を全部放出しましたが資金が足りませんでした。その時に英国大使館に福祉事業に使って欲しいと委託されていた英国人エリザベス・サンダースの遺産170ドルが寄附され、この寄附の資金を基にして岩崎別荘を買い戻し乳児院の設立に踏み切る事が出来ました。(大磯町ホームページより抜粋)
澤田美喜顕彰碑…門を入った処にあります
「聖ステパノ学園」…サンダースホームの中にある小・中学校です。
門を入った左手の小道を上ると澤田美喜記念館があるようですが、今回は行きませんでした。前の道を国道1号線に向かって歩き、鴫立庵へと急ぎました。
鴫立庵…石橋の下を流れるのが"鴫立沢"です
鴫立庵の石橋の前は、国道1号線(旧東海道)です
鴫立沢は庵の前から脇を流れ"こよろぎ浜"へ
鴫立沢で見つけた「ハクセキレイ・白鶺鴒」
「俳諧道場」…京都の「落柿舎」・滋賀の「無名庵」と共に日本三大俳諧道場です
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」…平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌です。江戸時代初期の 1664 年に小田原の崇雪という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建て、石仏の五智如来像をこの地に運び草庵を結んだのが始まりです。ちなみに崇雪には、小田原町宿老として伝家の丸薬である透頂香(とうちんこう)を売る小田原外郎(ういろう)こと宇野家の出であるとの伝聞があります。(大磯町のホームページ参照)
奥の「円位堂」…円位は西行の法名で、御堂は元禄時代そのままの建造物です
円位堂の扁額
堂内の西行(円位)像…等身大の坐像です
『心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ』…西行歌碑
この歌は「三夕の和歌」、秋の夕暮れと結んだ三首の名歌として知られ、
共に新古今集に所蔵されています。他の二首は…
『見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫家の秋の夕暮れ』…藤原定家
『寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ』…寂連法師
芭蕉句碑…珍しい円柱の句碑です
「箱根越す人も有るらし今朝の雪」・「春たちてまた九日の野山哉」・「みのむしの音を聞きに来よ草の庵」・「日のみちや葵かたむく皐月雨」の4句が刻まれています。
西行は能因法師に憧れてその歌枕を旅し、芭蕉は西行に憧れてその足跡の旅に出たと、聞いたことがあります。句碑の4句は、大磯の句でないのが気になります。
法虎堂…虎御前の像が祀ってあります
虎御前は大磯宿の遊女で舞の名手だったと言います。曽我兄弟の仇討を描いた「曽我物語」の兄・曽我十郎の思い人です。
庭園は約200坪、さして広くはない園内には至る所に歌碑や句碑が立ち並びます。
奥の建物は茶室です
左は「佐々木信綱歌碑」・右は「草間時彦句碑」
五知如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏)
園内の紅梅白梅は満開でした
鴫の井戸
鴫立庵を後に、傍らの道を海辺へ向かいました
鴫立沢の水の流れは、こよろぎ浜の渚近くの砂地に吸い込まれて消えます
照ヶ崎海岸(こよろぎ浜)…幽かに箱根の山並みが見えます
古代の大磯海岸は「よろぎ(ゆるぎ・こゆるぎ・こよろぎ)」の磯と呼ばれ、 多くの歌人達が大磯の景観を舞台に歌を詠んでいます。砂は鉄を含むのか黒っぽい色です。
さざれ石と呼ばれる砂礫の美しい海岸…旧東海道の松並木の景観も見えます
…二宮・大磯散策③に続きます…