2017年2月26日(日)…去年は色々なことが重なり、義妹のお墓参りが出来ず気になっていました。その詫びをしながらお参りを済ませ、その後は何時ものように護国寺に詣でました。護国寺は震災戦災の被害も受けず元禄の面影を今に伝えます。
護国寺・仁王門…南正面は阿吽の金剛力士像・背面には増長・広目天が安置
不老門
不老門前のカンザクラが満開なのではと期待しましたが、まだ3分咲きでした
寒桜にはメジロが群れていました
不老門前の松には梯子が掛かり、職人が手入れの最中でした
護国寺・本堂…徳川全盛の元禄の建築工芸を結集した都内唯一の大建造物です
護国寺は真言宗豊山派の寺院で、正式には『神齢山悉地院大聖護国寺』と言います。1681年に5代将軍徳川綱吉が、生母・桂昌院の初願により、上野の国・大聖護国寺の亮賢を招き開山とし、幕府の高田薬園の地を与え、堂宇を建立しました。
護国寺本堂内部…本堂前から撮影しました(本堂内は撮影禁止です)
本堂内に掲げられる『悉地院』の扁額は・5代将軍徳川綱吉筆です
中央の鏡の奥に、本堂御本尊が安置しています(毎月18日に御開帳されます)
御本尊は桂昌院念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩像」ですが絶対秘仏で、奥の院に安置されています。本堂御本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の木造の如意輪観世音菩薩で平安時代後期の作です…2度拝観しましたが、美しい仏様でした。
如意輪観世音菩薩…写真はネットから戴きました
月光殿…近江・三井寺から移築された桃山時代の建造物(重要文化財)
露座の大仏様
一言地蔵尊…願い事を一つだけ叶えてくれるというお地蔵様です
身代地蔵尊…このお地蔵様の謂れを初めて知りました
身代地蔵尊は…戦争犯罪人として死刑を宣告され、これに殉じた一千余名の人々の霊を慰め、再びこのようなことの起こらないよう平和祈願の為に、巣鴨プリズン最後の教誨師であった故・田嶋隆純大僧正の発願により、昭和28年建立されました。
茶室前に咲いていた美しい花色の椿
護国寺墓地を一巡りしました…名立たる政財界人のお墓が多くありますが…
葉室光子の墓…豊島岡墓所の近くにあります
明治6年、側室・葉室光子は明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊を死産、本人も4日後に亡くなりました。その皇子の陵墓を造るために、明治政府は護国寺所有の土地を皇室専用の墓所とし(豊島岡墓所)、皇子は最初の埋葬者となりました。
建築家ジョサイア・コンドルの墓…夫人・娘と共に眠ります
護国寺を後に音羽通りを歩き、鼠坂から小日向台地の切支丹屋敷跡へ…
音羽通り…右は目白台地、左は小日向台地で、音羽通りは谷間の道です
鼠(ねずみ)坂…左は上り坂の写真…右は上から下を見て撮りました
鼠坂は、音羽の谷から小日向台地へと登る急な石段の坂道です…細長くて狭かったので、ネズミでなければ上り下り出来ないと言う意味でつけられた名のようです。
都旧跡 切支丹屋敷跡
切支丹屋敷跡は島原の乱の後、宗門改役の井上筑前守の下屋敷内に牢や番所などを建て収容した「転びばてれん」の収容所です。遠藤周作の小説「沈黙」のモデルにもなったイタリア出身のイエスズ会宣教師「ジュゼッペ・キアラ」も、捕らえられ拷問の責め苦に耐えかねて踏み絵をし、この切支丹屋敷に収容されました。
屋敷跡地には瀟洒なマンションが建っています
遠藤周作の小説と、最近話題のマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』
ジュゼッペ・キアラは浄土宗に改宗し、岡本三右衛門の名を与えられ日本人の妻を娶り、84歳で没するまでの43年間をこの屋敷から一歩も出る事もなく過ごしました。
切支丹坂…左は下り坂…右は下から上を撮りました
『キアラ』も、最後の切支丹屋敷の幽閉者である『シドッティ』も、生きてこの坂を下ることはありませんでした…切支丹坂を下りた処は谷間で、高架上を地下鉄丸ノ内線が通ります…連なる坂道は庚申坂で、坂の上が春日通りです…坂の多い街です。
庚申坂…左の道を上り春日通りへ出ました…右は上から下を撮った写真です。
…文の京散策②に続きます…