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旧中山道・板橋宿を歩いて約1時間、板橋観光センターで小休憩しました

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板橋観光センター


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玄関先にはwelcomeの看板があり感激しました…有難うございます


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板橋観光センター内の「縁切榎の初代の木」

板橋区では、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」の方々が、地元のホットな情報をもとに、もてなしの心で案内してくださいます。センター内もいい雰囲気でした。


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板橋宿・仲宿…手前の道は王子新道です

王子新道は、仲宿手前と王子を結ぶ約2キロの道です。明治17年の大火の後住民は、生計の為に工場のある王子へと働きに出ましたが、道はとても不便でした。その為明治21年に、板橋宿の中央から旧加賀藩邸内を通り、 王子飛鳥山へ至る王子新道が完成しました…ふと足元を見るとこんな絵柄のタイルが道にあります。

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「かたつむりのマーク」は東京都「歴史と文化の散歩道」の標識です

遍照寺…江戸時代は区内屈指の寺院であり「馬つなぎ場」のあった処です

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遍照寺は明治に入り一時廃寺となりましたが、現在は成田山新勝寺末寺となっています。この遍照寺境内には旧宿場時代に馬つなぎ場があり、中山道では各宿に50頭の馬が常備され継立に備えていました。今は当時の面影は全くなく、馬頭観音や庚申塔の石塔だけが、境内片隅に祀られています。


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文殊院…本陣家、名主家の飯田家の菩提寺です


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文殊院本堂前の鐘…同行の友人が撞木を突いたら、いい鐘の音が響きました


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文殊院境内、閻魔堂…右側が奪衣婆(だつえば)

奪衣婆(だつえば)は、三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆です。又民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれ、彼方此方のお寺でこの像を見かけます。
何時だったかテレビで放映した「釣りバカ日誌」で、浜ちゃんこと西田敏行さんが夢の中で奪衣婆の格好をして現れ、1万円札しか持っていない(六文銭がない)スーさんこと三国連太郎の衣服をはぎ取る場面があり、大爆笑したことがあります。


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仲宿・脇本陣跡…和宮降嫁の際の宿泊所

和宮は有栖川宮家の長男熾仁親王と婚約していましたが、幕末の「公武合体」により、幕府の権力を回復させようと強引に推し進められた末に、降嫁を泣く々承諾しました。1861年10月20日、15歳の和宮が14代将軍家茂との婚儀のために京都を出発、攘夷派の妨害を避けるため、東海道ではなく、中山道を経由して江戸に向かいました。そして26日後の11月14日に無事板橋宿に到着しました。


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唯一の和宮の写真…写真はネットから頂きました

江戸へ向う途中、信州の小坂家で休息され折小坂家写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真で、ガラ乾板で軍扇に収められています。


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皇女和宮が降嫁の際に使用した駕籠…写真はネットから頂きました

幕府からのお迎えが2万人、道中警備のために動員された町人・農民らを含めると総勢20万とも数十万人ともいわれ、行列は50kmに及んだとされます。
警備のお礼として下賜された駕籠は千葉県一宮市の寺院に保存されています。


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増上寺・和宮像…写真はネットから戴きました

関東の荒武者を想像していましたが、将軍家茂は眉目秀麗な青年で思いやりがあり夫婦仲はよかったと言われます。家茂が京入洛の時に、お土産は何がいいかと尋ねたのに対し、和宮は「西陣織を」と…ところが家茂は急病となり大阪城で20年の生涯を閉じました。和宮は形見となった西陣織を抱きしめて「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」と、泣いたそうです。
又、増上寺の和宮の墓地を改葬した際、胸のあたりに1枚のガラス版の写真が添えられていて、数人の学者が直垂姿の若者の姿を確認しましたが、翌日にはただのガラス版になっていたそうです。和宮は脚気の病の為、箱根塔ノ沢で亡くなりました

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板橋…地名の由来となった橋は手前の石神井川旧路に架かる橋です


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江戸名所図会に描かれた「板橋」


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板橋の橋の袂の道標…この橋から京寄りが上宿です


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板橋から見た石神井川下流…王子方面への流れ


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縁切り榎…将軍に降嫁した各宮家や皇女和宮の行列はここを迂回して通りました


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「榎・エノキ」と「槻・ツキ…ケヤキの別名」が並んで生えています

中山道沿いのこの地は、大きな榎が生い茂る薄気味わるい場所で、何時の頃からか、この木の下を通る嫁入りは必ず不縁になると言う信仰が生まれました。原因の一つは「榎・エノキ」と「槻・ツキ」が並んで生えていて、これを「縁が尽きる」と語呂合わせして読んだ為と言われます。今も2本の木が並んで生えていますが、榎の木の皮を煎じて飲めば、縁切りに効用があるとされて剥がされることが相次ぎ、防御の為に木は竹のバリケードにに覆われています。


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縁切り榎の碑文

今日の板橋宿散策はこの縁切り榎の前で散会となりました。"いたばし観光ボランティア「もてなしたい」"の方の丁寧な説明と共に楽しく散策できました。有難うございます。さて昼の時分時です…お腹も空いてきました。

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板橋宿・上宿の旧中山道…緩やかな曲がり道です

「力士料理・クララ」…レトロな垂れ幕のお店でランチにしました
 
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環七と中山道が交差、上も幾重にも交差しています

ゆっくりとお喋りしながらのランチ、牛筋の煮込みは美味でした…帰り道は環七をバスで…どのバス停で降りるのかを教えてもらい、無事帰ることが出来ました。